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fashonable mind in fashonable body
お洒落な田舎者
お洒落なる精神は、お洒落なる肉体に宿る……のか?


 お世辞にもお洒落と言えないこの僕が、「ファッション」それも「お洒落」について語るというのはそもそもの始まりからナンセンスであるわけだ。しかし最近、2人の洒落者を見ていて考えたことなど、そこはかとなく書きつけるかと思う。

 Aさんという男性がいる。彼はお洒落な人である。最初、彼がお洒落な人であるということはさっぱり気がつかなかった。彼がお洒落であるというのが分かったのは、彼と話をするようになってからだ。彼の話題というのが、割とファッションの話題が多いのである。僕は彼のそうした話しぶりから「Aさんはお洒落に気を使う人なんだな」と認識した次第である。
 Bさんという女性がいる。彼女はお洒落な人である。僕は一目見た時に「あ、この人はお洒落な人だな」と肌で理解した。彼女の服装は、明らかにある種の美しい統一感を持っていたからだ。彼女とファッションの話題をしたことは一度もない
(話したこと自体あまり多くないが……)。しかし彼女は僕の印象としてお洒落な人だ。
 僕が好きなスタイルは、Bさんのお洒落である。

 僕にはお洒落なファッションというのはさっぱり分からない。しかし「お洒落な」生きざまについては多少の意見を持っている。スマートな生きざま、と言ってもいい。それは自意識の持ちようで分かる。
 お洒落とは他人の評価である。自己主張ではない。誰かが「お洒落だね」と言ってくれるのをじっとひたすら待たねばならない。それを待ちきれずに「自分はお洒落してます」とアピールしてしまうのは、ダサい。「見られる」という行為がいつのまにか「見せる」という行為にすりかわっているのだ。この無意識なすりかえ、誉められたいという自意識が、ダサい。こうした自意識の強い人間を僕は
(50パーセントの愛と50パーセントのからかいを込めて)「田舎者」と呼ぶ。世の中にはこうした「田舎者」があふれている。(ただし、我々は誰でも自分の中に田舎者を飼っているという事実も忘れてはならぬ……僕自身も田舎者である瞬間が多々あるのだから)

 本当にお洒落な人間は、決して自分ではお洒落だとは言わない。場合によっては、まったく自覚がないことさえある。にもかかわらず、誰が見てもその人物はお洒落なのである。「え? これ? 別にどってことない普段着だよ」と言うその服装が著しくお洒落であったならば、それこそまさに「お洒落な人」というべきか。『見せる』から『見られる』への見事な変化。このさりげなさ、無意識さが美しく、かっこいい。
 ファッションに拘泥しない「お洒落な心」の持ち主。それでいて自然とにじみ出るファッションセンス。我々は「お洒落な外見」だけではなく、「お洒落な外見に宿るお洒落な精神」をこそ求めるべきではなかろうか。僕などはあと100年かかっても到達できそうにないけれど。

(2000.3.17)


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