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good?
いいひと。
どうかな。


 先日うちの掲示板にとある(酔っぱらっていたらしい)知り合いからこんな書き込みがあった。
「もがみさんはいい人でしょうか? はじめはそうだと思ってたんだけど、ちょっと挙動不審でアヤシイ(笑)」
(この「挙動不審」てのが心当りがないんですけど……ともかくも、これはちょっと面白い議題のような気がしたので、取り上げてみる。

 同じように「はじめはいい人だと思ってた」という人間に心当りがある。ただしそれは小学生の時のことだ。その人物は、僕と同い年の人間で、僕のことをよく知っていた。そして、僕のことを大変にいい人だと思っていた。ところが中学校に入った時にまずそれが間違いであったことを知る。僕がちっとも善人ではないということに気付くのである。そして、さらに高校に入ったときには、中学校の時の認識でさえ、甘かったことを知る。善人でないどこではなく、“大迷惑”な“ヤな奴”であるという認識を持つに至る。
 もう、お分かりだろうか。その人物とは他ならぬ僕自身である。小学校までは結構自分がいい人かと思いあがっていたのだが、これが大間違いであると自分ではっきり分かったのは高校になってからだった。つまり、自分がいい人かどうか判断するのは大変に困難だということである。自分のことは誰だって正当化してしまいがちだ。客観的な意見を持つことなんかできっこない。だいたい自分のことをいい人だと思っている時点で、すでにちょっとヤな奴のような気もする。
 逆に、僕の友人には、必要以上に自分を卑下する人も何人かいる。彼らはたいへん罪の意識が強く、自分が悪人であると公言してやまない。しかし、僕は彼らを好きだ。だいたいにおいて、罪の意識を持つ人間に悪い人はいない。彼らがいい人であるというのはほとんど確実だ。ただ、問題は彼らがそれをどうやって自分で認識するかということにある。
 自分のことについて客観的に判断するのはかくも難しい。

 友人からこんなことを言われたことがある。
「僕はプラトンだからね……そして君はヒポクラテスだから」
これがまた、豊かに教養と機転を併せ持つ彼らしいジョークで、僕と彼のキャラクターを如実に現しており、僕はかなりウケたのだが……しかし、なぜ彼がプラトンなのか説明していては長くなるし、本題を外れてしまう。
 彼は僕をヒポクラテスと評した。つまるところ、偽善者(Hypocrates)だというのである。僕が他人にいい顔をしすぎているということだ。比較的率直な性質の
(ともすれば偽悪的な)彼としては、そう評したくなるのも無理はない。

 しかし徒然草には「狂人の真似をして大通りを走ればそれは狂人と変わりない。偽善であっても善人の真似をするなら、それは善人と呼んでよいのではないか」という段がある(第85段)。それもまたもっともなような気がする。
 音についての一つの命題がある。フレドリック・ブラウンの短編「叫べ、沈黙よ
(創元推理文庫『まっ白な嘘』収録)」の中で読んだのだが、広く知られる命題なのか、ブラウンの創作なのか分からない。恐らくは広く知られる命題なのだと思う。「聞く人の誰もいない森の奥で木が倒れたら、それは無音であろうか。聞く耳がない所に音はあるのだろうか」というのである。ブラウンは作品中でこの問題の解答を提示し、そしてそれに関連して恐ろしい物語を提示している。
 だがここではこんなバージョンを披露してみたい。
「偽善者が誰にも偽善だと知られることなく、みんなに善人だと思われたまま一生を終え、その後も善人だと思われたままだったなら、その人物は善人だと言えるだろうか?」

(2000.4.27)


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