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"Believe"
「信じてる」をきかせて
神よ、なぜ私をお見捨てになったのですか
 最近考えているのは「信じる」ということである。単語の意味だ。以前からうすうす気づいてはいたのだが、僕が考えている「信じる」と他の人が考えている「信じる」がどうも違っているらしい、ということが最近のソリカン研究室の研究で明らかになってきた。世間では「証拠がないから信じられない」というような、まこと信じがたい発言を聞いたりする。
 なんとまあ。びっくりだ。

 それじゃ、あんたはいったい何を信じるのかね。証拠がなければ何も信じないというのなら、キミ、パスカル先生よろしく「コギト・エルゴスム(我思う、ゆえに我あり)」から始めなくちゃならんだろ?(試してみるといい。やってみたから言うんだが、この方法だと自分以外のものは何ひとつとして存在を証明できない。注意しとくと、ここで言う“自分”ってのは、“自分の意識”ってことだ。自分のおでこのニキビさえ含まない)
 100パーセント確実で、証拠があるのなら、それは「信じる」んじゃなくて単に「知ってる」だけのことである(ねえ、さっきの話はまだ終わっちゃいないんだぜ。証拠が必要なら、タンスにぶつけた自分の小指の爪さえ存在を証明できやしないんだから。キミが"知ってる"モノなんてありゃしない)

 ソリカンの辞書によれば、「信じる」というのは「あえて『信じる』と言いきること」だ。疑っているにせよ、それを承知で「信じる」と言うことこそ、勇気であり信念ではなかろうか。そこには願いがある。「こうであってほしい」という願いこそが、「信じる」という言葉を生むのだ。と思う。
 ご承知かもしれないが、僕はサンタクロースの信奉者であり、「サンタクロースは存在しない」と言う人間には常に証拠の提出を要求している。いまだに「サンタクロースは存在しない」という確実で申し分のない証拠を提示した人間は存在しない(「証拠なしには何も信じない」と言っている人間が、証拠もなしにサンタクロースの不在を信じ切っているのは、実に奇妙に思われる)
 たとえば、こんな陳述を耳にする。
「自分はサンタクロースは90パーセント以上、いないと思う。だから自分はサンタクロースを信じていない」
 嗚呼、なんと現実的な、なんと夢のない、なんと大人な、なんと常識的な解答だろうか。存在してほしいと願う気持ちが無いから「自分は信じない」なんてことがあっさり言えるのだ。存在してほしいと切に願うのであれば、1パーセントだろうと「信じる」と言いたくなるのが人情ってやつではないか。夢ではなく「常識」ってやつが完全な勝利をおさめているのである(常識を捨てるということが、人間にとって、とても困難だということは、まあ分からなくもない。「サンタクロースは存在しない」を捨てられる人間が何人いる? なあキミ、キミの常識ってやつはキミが思うほど融通が利くモノじゃないんだぜ)

 宗教も同様。神が存在しないかもしれないという恐れを抱きつつ、敢えて「信じる」と言うこと。神が存在してほしいと心底願うこと。それが信仰ってもんではなかろうか。「宗教が真実だから信じる」という人間、「宗教が嘘だから信じない」という人間。どちらも「信じる」ということを理解していないように思う。
 また別の例として、「愛なんて信じられない」という人がいる。これまで何度も嫌な目にあったらしい。だが問題は、そうじゃないんだな。
 たとえば、大げさな話をすれば「永遠の愛」なんて存在しないかもしれぬ。でもだからと言って「永遠の愛なんて存在しない」なんて口に出して主張する人間は、死んでしまった方がいいのだ。そんな人間には、愛そのものが存在しない。「愛を信じない」と言う人間を愛することができようか?
 切に願え。そうすれば「永遠の愛を信じる」と言えるはずだ。「信じる/信じない」は確率ではないのだ。証拠だの確率統計なんぞ、どこへなりとも消え失せろ。信じるとは、願いであり、意志である。

信じていると言ってくれ。
その心からの願いを世界に響かせてくれ。
そうすれば、応えが見つかることもあるだろう。

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