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昔、僕が一介の予備校生だった頃(今は出世したという含意ではない。今は一介のニセライターに過ぎぬ。悪化したとさえ言えるかもしれない)、予備校の世界史の先生が、200人はいようかという大教室に向かって講義中、目ん玉ひんむいて呼ばわった。
「真実ってなんや! 軽々しく真実なんてことを言ってもらっちゃ困るんやで!」
別に誰かに怒っているわけではない。話の流れで、勝手に真実について語り出したのである(そういう人なのだ)。なんで世界史の時間に“真実”の包括的定義を問われるのか、そこは訊かないでいただこう。往々にして面白い授業ってのは脱線だの蘊蓄(うんちく)だのが付き物だし、面白くなければ代ゼミでトップ講師になるなんてことはできっこないのだ(例外を一人だけ知っている……がそれはまた別の話)。それに世界の昔話なんてあらかた忘れてしまったとしても、こういう面白い話は忘れない。さて、真実とはなんぞや?
「そりゃ、誰に持っていっても『これでオーケーよ』ってことヨ」
急ににこやかな口調になって(そういう人なのだ)、初老の先生はなおも続ける。
「クリントンさんに持っていっても『お、これはたしかに、その通りです』とおっしゃる(たしか当時クリントンだった)。ゴルバチョフさんに持っていっても『はい、これで結構です』とおっしゃる。フセインさんも『お見事、これでオーケーです』と言う……古今東西、今昔、老若男女、誰に訊いても『はい、その通りです』と言うなら、それは真実として認められるのです」
最後はなんだか厳粛な丁寧語になって終わる(そういう人なのだ)。それにしてもこれは真実の包括的定義としてはよくできていると思う。「共通認識」が真実だというわけだ。
たとえば、クリントンとフセインが一緒になごやかに談笑しているトコロに飛び込んでいって、「1+1」について尋ねてみよう(数学記号は概念化されてるから言語の違いは問題にならない。共通言語だ)。二人とも「2」だと答えるに違いない。したがって「1+1=2」というのは真実である。めでたしめでたし。
待った、待った。ところが、こともあろうに、数学者という人たちはここに割り込みをかける。「1+1=2」だとは限らないというわけである。「1+1=10」ということがあるものだ。そんな馬鹿な、と言うなかれ。2進法の世界である。もちろんこれは詭弁だ……2進法であれば「10(2)」のように表記するのが通例である。それに「10(2)」は実質的に「2」と同じことだ。しかしながら、「1+1=2」についてさえ、ちょいと議論の余地がある。まして、詩人か文学者に語らせてみたまえ。「1+1=2」だなんて話はまったく信用しない人種である。少年漫画はなおさらだ。「二人の息がぴったり合えば、1+1は10にも20にもなるんだ!」なんて台詞が平気で飛び出してくる。
このようにあんまり真実がいろいろなものだから、我々はもう包括的で完全な真実なんてものについてはあきらめてしまうしかない。逆に、ごく限られたコミュニティ内部で真実を見つけることにしよう。「仲間内でのみ真実」である。そしてそれを外部に持ち出さない。持ち出す場合には、きちんと翻訳してから。翻訳できないものは、もうあきらめてしまうのだ。外部から持ち込むものについても同じ。きちんと翻訳してから輸入する。
それはあるいは「包括的な真実」からは外れているかもしれぬ。しかし、局地的な真実ってのがあってもいいのじゃないか? うっかり外に輸出さえしなければ。
結局のところ、我々は自分だけの真実を持っている。誰にも理解されない、自分だけの、たった一人、世界中を敵に回すその真実。その真実が届く範囲は自分の部屋の中だけ。ちっぽけなちっぽけな真実。
でも、それはそれで、尊いもののように、思われるのです(なんだか厳粛な丁寧語になって終わる)。
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