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第一章
春日 真奈様はじめまして。僕は加納透。突然過ぎて、こんな手紙を奇妙に感じるかもしれない。でも、これはほんとに真面目な手紙だ。どうか冗談だと思わないで。この手紙に書かれていることには、何一つ、偽りはない。あなたをからかうつもりなどない。
僕はあなたを守るために生まれた。僕は、あなたを愛している。だから、いつもあなたを見守っているし、あなたを悲しませるものからあなたを守りたいと思う。
またしばらくしたら手紙を書くつもりだ。4月7日
加納 透
気持ちのいい朝だ。圭一との待ち合わせには、まだ十分時間がある。久しぶりのデート。ここのところ、圭一は仕事が忙しくて、なかなか時間が作れないのだ。昨日も、仕事で相当遅く帰ってきたようだ。
あたしは、ちょっと早めに部屋を出て買い物でもしようとアパートを出た。出掛けに、何の気なしに郵便受けをのぞいて見ると、一通の手紙が入っていた。薄い黄色の、薄っぺらな封筒で、宛名はただ「春日真奈様」とだけ、住所もなく、切手も貼ってなかった。裏を見ると、小さな文字で「加納透」とある。
あたしはその名を見て、首をかしげた。加納という名前に心当たりはなかったからだ。女子校育ちのあたしには、男の子の友達はあまり多くない。大学の友達かとも思ったけれど、どうしても思い出せなかった。しかも、なぜ切手を貼らずに、直接持って来たのか? どうやら、昨日の夜にでも投函したものらしい。
あたしは、少し興味を持って、その場で封を切った。入っていたのはただ1枚、走り書きのように書かれた便箋だった。
読むにつれ、あたしは急に顔が赤くなるのを感じ、急いで手紙をバッグにしまうと、そそくさと歩き始めた。頭の中を、手紙の文句がぐるぐると回り始めていた。
あたしはこの時、気づかなかった。この手紙がどこかおかしいということに。いや、心の奥ではその時すでに、この手紙がどこか狂っているということを知っていたのかもしれない。気づいていたからこそ、それに気づかない振りをしたのかもしれない。分からない。『気づかなかった』ことに理由をつけられる人間などいるだろうか?
ともかくあたしは買い物に出かけた。買い物と言っても何か買いたいものがあったわけじゃない。待ち合わせまで少し暇があったので、街をふらついてみようと思っただけ。ウィンドウを次から次へとのぞいて、洋服と、値段を見比べて楽しむ。マネキンに、ウィンドウに映る自分を重ねて『試着』するのがあたしのウィンドウ・ショッピングのやり方だ。店員に邪魔されることもないし、自分に似合いそうもないような服だって好きなだけ試すことができる。完全に自由な、着せ替え遊び。
でも今日はあまり楽しめない。頭を占めているのは、例の手紙のことだった。一体どんな人なんだろう? なぜあたしのことを知っているんだろう? 本気なのかしら……?
そうやってふらふら歩いていくと、10分ですむ距離が30分にもそれ以上にもなる。ふと気づくと、待ち合わせに少し遅れてしまっていた。こんなことで怒る彼ではないが、あたしはちょっと足を早めて、待ち合わせ場所へと急いだ。
「ちょっと、遅れたね」
ぺろりと舌を出しながら、あたしは言った。やっぱり、彼は先に来て待っていたのだ。
「ちょっと?」
彼は冗談めかしてふくれっつらをした。あたしも笑いながら応えた。
「ごめんごめん。じゃ、お昼はおごってくれる?」
「僕が? どうして時間通りに来た方がおごるのさ」
「だって今月厳しいんだもん。さ、行こ!」
あたしはけらけらと笑いながら、彼の手を引っ張った。
彼の名前は高橋圭一、同い年だ。小学校が同じで、だけど大学のサークルで知り合った。小学校の時には話したこともなかったのだけれど、圭一はあたしのことをはじめから知っていた。二人には共通の友達がいたからだ。初めて話した時にはその友達の話題で盛り上がって、それで彼にいい印象を持ったのかもしれない。
子供時代の彼は人に埋もれてしまうタイプだったのに、サークルでは結構人気があった。彼は人徳だと言っているが、大学に入って少しおしゃれになったせいだとあたしは思う。彼の高校時代の写真を見せてもらったが、あんまり平凡な服装で、今とのギャップに思わず吹き出しそうになった。これではあたしが彼の存在に気づかなかったのも無理はない。その話になると圭一はいつでも「お前は見る目がない」と大げさに嘆く。
ご機嫌でデザートの洋梨のシャーベットを食べるあたしを見ながら、圭一が言った。
「今日はやけに機嫌がいいんだな。何かいいことでもあったの?」
あたしはぎくりとした。彼には手紙のことは秘密にしようと思っていたからだ。
「そう? うーん、天気がいいしね」
「なんかあやしいな」
「いいの、いいの」
あたしの秘密主義はいつものことだ。こんな時、あんまりうるさくするとあたしの機嫌に水を差すのを、圭一は経験からよく分かっている。だから彼は苦笑いしただけで、それ以上追求するのをあきらめた。あたしはふと、意地悪を言ってみた。
「圭一の方こそ、何かいいことがあったんじゃないの?」
「何もないよ。どうしてそんなことを言うのさ」
「だって、いつになくおとなしく引き下がるじゃないの。自分にやましいところがあると、人を疑いたくなるものだし。さては、あたしに隠しごとがあるな?」
「いや、何もないよ。全然ない」
だけどその時、あたしは急に不安を感じた。なぜか突然まじめな顔になった彼の顔を、あたしはじっと見つめた。
「そうよね。何もあるわけないわね。当たり前よね」
あたしはそう言って、洋梨のシャーベットをスプーンでいじりまわした。何か、自分の台詞がとってつけたもののように不自然な声音に聞こえた。急に二人とも黙り込んでしまって、何か気まずい。シャーベットはいつのまにか溶けてしまっていた。
あたしたちは支払いを済ませて、店を出た。それから何もなかったかのようにはしゃぎながら、街を歩いた。
「今日は本当に一日楽しかったわ」
圭一の家はあたしの家からそんなに離れていない。だけど、駅からはちょうど逆方向になる。だからあたしたちはいつも駅のそばで待ち合わせをし、駅で別れて家に帰った。今日も、商店街をひとまわりして駅に着くと、自然と挨拶をした。
「今度会うのはちょっと先になるかもしれないよ」
「まだ忙しいの?」
「うん、まあちょっとね。ちょっとミーティングの準備とかでしばらく忙しいから」
「圭一の仕事って、意外と忙しいのね」
「そう?」
「前は全然仕事がないって、暇そうにしてたのにね」
「最近はね」
真顔で返す彼に、あたしは明るく挨拶した。
「ま、いいわ。また電話するし」
「うん、それじゃね」
あたしは振りかえって手を振った。彼はあたしの姿が見えなくなるまであたしを見送ってくれる。それがあたしたちの習慣だった。あたしは何度も振りかえって手を振った。
部屋に戻って、何の気無しに郵便受けをのぞいた。何も入っていない。だけど郵便受けとの連想で、あたしはさっきの手紙のことを思い出した。パタンと空の郵便受けのふたを閉じて、部屋への階段を上がる。あたしの部屋は302号室で、3階だ。部屋に入ると、いつも玄関の鍵をかけ、チェーンを下ろす。女の一人暮しは物騒だからと圭一におどかされて以来、そうするのが習慣になっている。習慣になってしまえば、チェーンもそれほど面倒と感じない。むしろ、いくらか安心だ。
あたしは鞄を探って、さっきの薄い黄色の封筒を取り出した。女の子だったら決して使わないような、簡素な封筒。しかもラブレターにこんな地味な封筒なんて、とあたしは思う。でも、それだってラブレターには違いない。
大げさな文面が、かえって本気のように思われた。冗談だったらもう少しもっともらしく書くだろう。「あなたを守るために生まれた」なんて文は、ちょっと熱くなりすぎのような気がする。
「きっと思い込みの激しい人なのね……」
あたしは文面から推測できるこの男性の性格を分析してみた。字はあんまりきれいじゃなくて、なにか手が震えているみたいな変な書き方だ。でも文章からすると、けっこう礼儀正しい。きっとすごくまじめで、ちょっと思い込みがキツイ。相当のロマンチスト。顔は……さすがに、文面から顔までは分からない。でも、想像してみるとすると、細めのジーンズをはいていて、髪は男性にしては少し長めで……。
あたしはちょっとドキドキして、そしてささやかな罪悪感を覚えた。日常に飛び込んできた小さな刺激。罪悪感と言っても、快感と紙一重の、ほんのささいなアバンチュール。まあ、これくらいはいいでしょ、とあたしは自分に言い聞かせた。別に本気でこの人と付き合うわけじゃないし。顔を想像してみるくらい、別に浮気をしたことにはならないもの。第一、圭一だって……そこまで考えて、あたしは自分の考えにハッとした。
「『圭一だって』……? 『圭一だって』、何?」
気づくとあたしは、机につっぷして眠ってしまっていた。おかしいな、どうして最近、こんなに眠いんだろう。睡眠は普通にとっているのに、時々、急に眠気に襲われて……そしてこんなふうに目を覚ます。外はもうすっかり暗い。いけない、買い物に行くつもりだったのに。あたしはすぐさま外へ出る支度をした。買い物袋を持ち、ドアを出ようとした時、はじめてドアのチェーンが外れているのに気づいた。
「おかしいな。あたし、ちゃんと閉めなかったのかしら」
あたしは鍵をまわすと、外へ出た。
第2章
春日 真奈様手紙を読んでくれて、どうもありがとう。僕はいつでも君を見守っている。僕が君を守ってあげる。だから、高橋圭一とは、別れた方がいい。あの男は、君を裏切っている。君を幸せにするつもりなんか彼にはない。はやく現実を認めた方がいい。
また明日、手紙を書く。その時までにちゃんと彼と別れてくれ。4月8日
加納 透
すっかり暗くなってはいたが、スーパーはまだ開いていてくれた。手早く夕食のための材料を買い、家に戻る。いつもの習慣で郵便受けをのぞくと、また薄い黄色の封筒が入っていた。思わず顔が緩んでしまう。まあ、毎日書いてくるつもりかしら。とにかく、悪い気はしない。あたしはそれを手に、階段を上がって、自分の部屋に入った。
ところが、いそいそと手紙を開いて読んで、そしてあたしはしばらく絶句してしまった。これはいったいどういうことなのか? なぜこの『加納』という男性が、あたしと圭一の仲を知っているのか。知っているのはともかく、何の権利があって別れるように言うんだろう。
ストーカー。
あたしの頭の中にその単語が浮かんだ。そうだ、そうかもしれない。確かに、この文面は普通じゃない。あたしは急に怖くなって、玄関の鍵とドアチェーンを確かめた。窓の鍵もきちんと閉める。だけど、もし押し入ってきたりしたらどうしよう。とりあえず、両隣には人がいる。一方は30代の夫婦で、もう一方は普通の女子大生だ。叫んで助けを求めれば、たぶん110番くらいはしてくれるだろう。だけど、警察が来るまでは自分でなんとかしなくちゃいけない。
気づくと、あたしは圭一に電話していた。やっぱり怖い。できれば圭一に相談に乗って欲しい。呼び出し音が鳴るまでの間、あたしは自分の心臓の音を聞いていた。
「高橋です」
「圭一? ねえ、ちょっと来てくれない?」
「今? 今は無理だよ」
「でも、どうしても。ねえ、ほんとにどうしても来て欲しいのよ」
「どうした? 何かあったの?」
「ストーカーみたいな手紙が来たの。今も、どこか近くにいるかもしれない」
「待てよ、落ち着けよ。ちゃんと鍵はかけてる?」
「うん、ドアも、窓も全部締め切ってる。だけど、怖いの」
「なら大丈夫だよ」
「怖いの、お願い」
圭一は、困ったように低くうなると、
「今、客が来てるんだよ」
と言った。
「今日はミーティングの準備だって言ったじゃない」
「急なお客なんだ、すまん。また後で連絡するよ」
「お客さんが帰った後でもいいから」
返事が来るまでに、一拍、間があった。彼が躊躇したのが分かった。彼は、あたしよりそのお客を優先したいのだ。
「分かった」
彼は短く返事すると、そっと電話を切った。
それからずっと、あたしは電話を抱えて待った。圭一からの電話を待つよりほかに、安心できるものがなかった。それに、いざとなったらすぐに110番を押すこともできると思った。電話が、あたしの命綱だった。小さな物音にビクビクし、天井から誰か入ってこないかとか、いろんなことに怯えていた。
圭一からの電話はいつまでたってもかかってこなかった。第3章
春日 真奈様どうして僕の言うとおりにしてくれないのだろう? 僕は本当に君のためを思っているのに。あの男に頼るなんて、馬鹿げたことだ。彼は君があんなに頼んでも、電話ひとつくれなかった。僕は、いつも君のそばにいて君を守っている。
これは警告だ。彼と別れて欲しい。今は辛いかもしれないが、いずれ、それでよかったと分かるだろう。今夜、また手紙を書く。4月9日
加納 透
あたしはいつの間にか、電話機のそばで眠ってしまっていた。もうすっかり朝で、時計を見ると、午前10時をまわっていた。圭一が電話をしてくれたのか、それともそうでないのかは分からないが、とりあえず、今までは何も起こらなかったようだ。あたしは少し気分が落ち着いて、ゆっくりと立ちあがった。変な姿勢で眠ってしまったせいで、立ちあがるとひざが痛んだ。立ちあがってあたりを見渡すと、机の上に薄い黄色の封筒が置いてあった。
おかしいな、と思った。あんなところに封筒を置いたかしら。たしか、電話のそばに置いたと思ったけれど。足元に視線を落とす。2つの封筒はやはり床に散らばっていた。じゃ、この封筒は何? どうして1通余分があるの?
あたしは机の上の封筒を手に取り、中を開いて、文面を見た。あたしの顔は、青ざめていたに違いない。これは3通目だ。
あたしが眠っているうちに、誰かがここに置いた……。
あたしはドアを振り向いて、そして呆然となった。チェーンが外れている。あんなにしっかり確かめたはずのチェーンが外れている。ドアに飛び付いてチェーンを閉めようとした、あたしの手が止まった。鍵も外れている。あたしが閉めた鍵もチェーンも外されてしまっていた。あたしが目覚めるまで、どのくらいの時間か分からないが、この部屋には誰でもたやすく入れたのだ。そして、その誰かは、眠っているあたしのそばを通って、机の上に封筒を置いて、そして立ち去ったのだ。いや、立ち去ったかどうか分からない。まだ外の通りにいるのかもしれない。ドアの外にもし立っていたら。もしかしたら、まだ、この部屋に……。
あたしは、引き出しに駆け寄って、取っ手をつかむと、それを引っ張り出した。底の方に折りたたみ式のナイフが一本、入っているはずなのを思い出したのだ。チェーンも、鍵も役に立たない。今のあたしは、ナイフしか頼ることができないのだ。あたしは半狂乱になりながら、引き出しの中身をひっくり返した。
その時、書類の間に、見覚えのある薄い黄色がちらと見えた。あたしは、はたと手を止めた。あの色は……あたしは反射的に、書類をどけてその正体を確かめた。薄い黄色の、薄っぺらな封筒。しかし、未使用の封筒の束だ。ビニールの袋に入って、使われるのを待っている。ビニールの封は開けられている。あたしは震える手でそれを手に取り、枚数を数えた。6枚。10枚入りだから、4枚が使われている。あたしは、それをどこで買ったものだか思い出そうとした。
そうだ、学生時代、数人で旅行をした時に、誰かが手品をやると言い出したんだ。それに使うからと言って、旅先の小さな雑貨屋で買った。結局封筒は1枚を使っただけで、友達はその残りをあたしに押し付けたのだった。あたしはこんな事務用の封筒を使うことなどないと思ったので、引き出しの奥の方に放り込んでしまったのだ。今まですっかり忘れていた。だけど、どうして今まで忘れていたんだろう? なぜ、この封筒が、3枚も減っているのだろう? この封筒が……どうして「加納」の手紙に使われているのだろう?
あたしは訳がわからないまま、電話に手を伸ばした。圭一に聞いてもらおう。圭一なら、きっとあたしを助けてくれる。こんな頭では何も考えられない。頭痛がひどい。ズキズキと痛む。何か、急に眠気も襲って来た。あたしは酔っぱらったみたいにフラフラしながら、なんとか電話に手をかけ、圭一の番号を押した。
圭一はすぐには出なかった。ずいぶんコールして、ようやく圭一の声がした。
「高橋ですが」
「圭一、お願い、助けて」
「……どうした?」
「変なの。ストーカーみたいなのにつきまとわれて……昨日は部屋に入ってきたみたいなの」
「鍵を開けたのか?」
「ちゃんと閉めた。閉めたの。でも朝になったら、鍵もチェーンも外れていて、部屋に入った跡があったの」
「あんな頑丈な扉をこじ開けたのか?」
「ううん、分からない。ねえ、お願い、来て」
圭一は、答えなかった。あたしは、彼が妙に口数が少ないことに気づいて、言った。
「誰かそこにいるの?」
圭一は、しばらく黙ったままだった。
「いいんだ、関係ない」
「昨日のお客さん? まだいるの? 泊まったの?」
「あとでそっちに行くよ」
「いいってば!」
あたしはびっくりするほど大きな声を出した。それから、またフラフラの声で続けた。
「いい。大丈夫」
「行くったら」
「いい」
受話器の向こうで彼はまだ何か言っていたけれど、聞かなかった。あたしは受話器を置いた。指に力が入らなくて、受話器を置くのもやっとだった。あたしはなんとか手探りで受話器を正しい位置にきちんとはめ込むと、フラフラとじゅうたんに額をつけた。頭が痛い。眠い。怖い。あたしは、目を閉じた。暗闇が見えた。それは真っ暗だった。それは、自分の中の闇だった。
第4章
春日 真奈様君は僕の言うことを聞かなかった。彼……圭一と別れるように僕は何度も薦めたのに、君はそれを無視したね。どうしても言うことを聞かない子供には、それなりの方法で言うことを聞かせるしかない。それが本人のためになるからだ。どうしても彼とは別れてもらう。君には罰を与えよう。そして、彼にも報いを与えよう。君を悲しませる男には、大きな報いが必要だ。君を幸せにするためには、どうしても必要なことだ。
4月9日
加納 透
あたしは目を覚ました。またいつの間にか、眠ってしまっていたらしい。窓から入る光は夕暮れで、ずいぶん時間がたっている。あたしは体を起こして、そして手に触れた、ザラっとする感触に思わず視線を落とした。あたしは、大きな悲鳴をやっとのことでこらえた。
それは、床に散らばった髪の毛だった。しかも、あたしの髪の毛だった。背中まで伸ばしていた髪の毛が、バッサリと、切り落とされているのが重さで分かった。昨日、あたしが引き出しの奥から引っ張り出したナイフが、床に転がっていた。それに髪の毛が数本、からまっている。このナイフで、あたしの髪の毛を切ったのだ。そしてナイフのそばに、封筒が添えられていた。確かめるまでもなく、それは4通目の手紙だった。あたしはそれを拾い上げる間、体の震えが止まらなかった。
読み進むうちに、あたしは息が止まる思いをした。今度は、圭一が危ない。「加納」はあたしには直接危害を加えなかった。それはあたしを守っているつもりだからだ。だけど、圭一には何をするか分からない。もしかしたら、恐ろしいことになるかもしれない。
あたしは大急ぎで電話を取った。2回番号を間違え、3回目にようやく正しい番号を押すことができた。彼が出るには、時間がかかった。
「高橋です」
「圭一? 逃げて、そこからすぐに。ストーカーが、あなたのところに行くって言ってるの」
「何だって?」
「圭一と別れないなら、圭一に報いを与えるって手紙が来たの。もうそっちにいるかもしれない。すぐ逃げて。ううん、街に出たらかえって危ないかも。部屋にいて、鍵をしめて。絶対に誰も入れないで」
「おい、真奈」
「いいから。そこに誰かいるのなら、すぐに出てもらって。危ないから。今からあたし、そっちに行く。あたしにはきっと危害を加えないから」
それだけ言って、あたしは一方的に電話を切った。動きやすいジーンズに、シャツ。そして、ばらばらの髪の毛が目立たないように野球帽をかぶって、支度をした。それから床のナイフが目に止まり、それを拾ってポケットに入れた。万が一、万が一、これが役に立つかもしれない。まだ髪の毛がからまっているけど、構ってはいられない。圭一に全部最初から説明するために、4通の封筒も持った。そしてあたしは部屋を出て戸締りすると、圭一の部屋に向かって駆け出した。
空はだんだん暗くなってきていた。美しい赤い太陽は、もう地平の向こうに隠れてしまった。まるで何か、悪夢が襲いかかってくるみたいに、どす黒い闇が、残った弱々しい光を追いつめていた。あたしはその闇から逃げるみたいに、夕日に向かって必死で駆けていった。駅を過ぎ、いつも通る小さな商店街を走った。すごい形相で走る私を、街の人たちが不思議そうに振りかえった。
走り疲れて、あたしは、ブティックのショーウィンドウの前で息を整えた。心臓が破れそうなほど脈打っている。こめかみがズキズキする。あたしはふとショーウィンドウを見て、そして息を呑んだ。そのウィンドウには、男物の服が飾られていたのだ。そして、そのウィンドウの中でひときわ鮮やかに、マネキンのように立ち尽くす人影が、びっくりしたような表情であたしを見つめていた。男物のジーンズにシャツ。野球帽をかぶり、そして、男性にしては長い髪の人物。封筒の文章からあたしが想像した通りの「加納」がそこに立っていた。違う、これは「加納」じゃない。これは、あたし。だけど、これが……こめかみがズキズキする。激しい頭痛が襲ってきた。夕焼けの最後の赤が消えた。夜がやってくる。あまりの苦しさに、あたしは目を開けていられなくなって、目をつぶった。一面の闇があたしの視界を覆いつくした。
圭一の部屋は、小さなコーポの2階だ。あたしが階段に足をかけた時、2階の扉が開いて、誰かが出てきた音がした。
「ごめん、今度埋め合わせはするから」
「ううん、大丈夫、じゃ、またね」
そんな声が階段の下まで聞こえてくる。足音が響いて女の子が一人、階段の上に姿を現した。小柄で、チャーミングな女の子だ。以前、職場の写真で圭一の隣に写っていた人だ。圭一が職場の後輩だと言っていた人だ。一昨日、圭一と一緒にいた……。彼女はあたしの顔を知らない。あたしには気づかない。ハイヒールの甲高い音が、階段を下りてくる。あたしとすれ違うと、彼女は通りに出て行った。コツ、コツという早足の靴音が遠ざかる。
あたしはゆっくりと、階段を上った。そして、彼の扉の前に立つと、チャイムを鳴らした。インターホンで彼が出た。
「はい」
「……圭一」
「ああ、真奈か。待てよ」
ドアの中で音がして、彼がレンズをのぞいているのがわかった。それから、チェーンをずらして外す音がし、鍵が外れ、ドアが開いて、彼があたしを招き入れた。
「どうしたんだよ、いったい」
圭一はつとめて息を落ち着かせていたが、何かよほどあわてていたような、荒い息をしていた。どこか落ち着き無く視線をさまよわせて、あたしの目を見なかった。
「かわいい人ね」
あたしは言った。彼はぎょっとして、唇をなめた。
「待てよ、何か誤解してるんじゃないだろうな」
「誤解なんかしてないよ」
彼はさらにぎょっとした。あたしの声が、突然変わったのに驚いたのだ。あたしはまるで少年のような、低い声で続けた。
「あなたが彼女とつきあってるのは、分かってるんだよ」
「真奈? おい?」
「ずっとおかしいと思っていた。あなたが急に仕事が忙しいって言い始めて、真奈に会う回数が減ってきた。一昨日、あなたが仕事が忙しいと言っていた日に、とうとう見つけたんだ。街を歩く二人をね」
あたしが、帽子を脱ぎ捨てた。圭一は、あたしの髪を見て、そしてそれ以上に、あたしの目を見てぎょっとした。あたしは、彼をにらみつけている。
「真奈はそれを見てどんなにショックだったか……だけど、真奈は現実を認めなかった。あなたを好きでいたかったんだ。だけど、そんなことはさせない。あなたには、報いを与えてやる」
あたしの指が、ポケットからあのナイフを取り出した。
「真奈、待て、落ち着け」
「真奈は今眠っている。僕は加納だ。彼女を守るために生まれた。彼女を、あなたから守るために。彼女が眠っている間に彼女に手紙を書いた。彼女にあなたをあきらめるように説得しようとした。だけど彼女は聞かなかった。あなたを殺さなくては、真奈は幸せにならないんだ!」
あたしが、ナイフを振りかざして、圭一に切りつけようとした。あたしが?
「ぐっ」
あたしが急に立ち止まって、ナイフを握りなおした。指に力が入らない。いや、指が重い。ナイフをなんとか離さなくてはいけない。圭一を傷つけてしまう。圭一を助けるために持ってきたナイフが、圭一を傷つけてしまう。必死にしゃべろうともがく。自分の口が思うようにならない。
「圭一……逃げて」
圭一は呆然としている。あたしは右手にナイフをつかんで、圭一に切りかかったが、圭一はそれを受け止め、ナイフを捨てさせようともみあった。圭一にナイフを渡そうと必死に努力しているのに、指がしっかりとナイフを握り締めて動かない。そのまま圭一を蹴りつけると、彼はもんどりうって床に倒れた。あたしは圭一を助け起こそうと駆け寄り、そのままナイフをふりかざす。圭一が危ない。必死の力をふりしぼって、足を止める。自分の体なのに、どうしても思うように動かない。左手だけは自由になることに気付いたあたしは、必死で右手首を捕まえた。なんとかナイフを放させようともがく。ナイフがぽろりと床にこぼれて、あたしはそれを拾おうとかがみこんだ。左手が、右手より一瞬早くナイフをつかむ。あたしは素早く立ち上がり……そして圭一に襲いかかった。馬乗りになり、右手が彼ののどを締め上げる。彼はあたしの腕を振りほどこうとしたが、体勢が下になっていて、あたしが全体重を右手にかけているので振りほどけない。あたしは左手に持ったナイフで思いきり切りつけた。自分の右手首、動脈と思われる場所を。
圭一ののどはあたしの血で染まった。右手の力が抜け、圭一ののどを離した瞬間、あたしはそのまま倒れこむ。体が重い。頭痛がひどい。
唇からかすかな言葉がこぼれた。
「どう……して……」
エピローグ あたしは病院で目を覚ました。ズキズキと痛む右手首には包帯がまかれていた。あたしは自殺未遂だったことになっており、親が来て泣いた。あたしは変な気まずさで、何も言えなかった。本当のことを言っても、きっとうちの親には理解してもらえなかっただろう。だから「加納」のことは圭一とあたししか知らない。
圭一は一度だけ病室に来た。医者も看護婦も、彼があたしの自殺の原因だと信じ込んでいたので、どうやら看護婦は面会させてよいものか迷ったようだ。でも、あたしが大丈夫だと言ったので、看護婦同伴で、少しだけ面会を許してくれた。彼は病室に入ってきて、小さな椅子に腰を下ろした。
「大丈夫か」
「大丈夫」
あたしは、病院にいるのにおかしな会話、と思った。ただの世間話をした。圭一もあたしも、彼女のことには触れなかった。加納のことにも触れなかった。ただ立ち去るまぎわ、圭一がこう言った。
「お医者さんが不思議がってた」
「……なに?」
「右利きなのに、どうして左手で……」
そこまで言って、彼は言いよどんだ。
「たしかに不思議ね」
あたしは静かにそれだけ言った。それが「加納」と関係あるただひとつの会話だった。
あたしがもう自殺しそうにないと分かると、お医者さんはあたしを退院させてくれた。傷自体は思ったよりたいしたことがなくって、包帯をとったら、跡もあまり目立たなかった。
「加納」については、精神科の病院に行こうか、カウンセラーに会おうかなどと思ったりもしたけれど、結局誰にも言わないままだ。「加納」からの手紙はあれ以来ない。ナイフの方は、まだ引き出しの一番奥にそっとしまってある。
あの日、ナイフで切り落としてしまった髪型は、行き付けの美容室に行ってそろえてもらった。なじみの理容師さんはあたしの髪を見てたいそうびっくりしたが、何も聞かずに上手に短い髪をまとめてくれて、ショートカットもよく似合う、と請合ってくれた。失恋より先に髪が短くなってしまったので、あたしはこっそり、コロンを変えた。それから、髪にあわせて服装も少しボーイッシュなものをそろえ、それらを着るようになった。友達は、イメチェンしたあたしを見て、意外な一面もあったのね、と笑った。あたしも、自分でも意外なくらいなのよ、と言って笑った。
すべて終わって落ち着いた頃、郵便ポストに1通の手紙が届いた。それは圭一からだった。その長い手紙には、彼女とは別れる、もう一度やり直したいということが、長々と書かれていた。あたしは短いさよならの手紙を書いた。あなたとやり直せるとは思えない、どうもありがとう、とだけ書いて、ポストに入れた。
それから、あたしは決心して、もう1通、短いさよならの手紙を書いた。それは引き出しの一番奥にしまってある。薄い黄色の封筒に入れて。
加納 透様あの時はごめんなさい。あなたの思った通りにはならなかったかもしれないけど、でも、これでよかったのだと思っています。あたしが彼と別れることができたのは、きっとあなたのおかげでしょう。もう2度と会うことはないけれど、どうもありがとう。さよなら。
春日 真奈
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