いけばなの評価

正月には毎年、松竹梅を生けることにしています。ある年の暮れ1〜2時間かけても生けあがらないのです。 どうも井筒配りが良くないようで、ほんの少し竹を削ってみました。それだけなのに数分で立ってしまったのです。配りの重要さを改めて思い知らされ、 そこに花の美しさ以上に力学の美を感じました。新たな年を迎えるための松竹梅は清々しく、背筋をぴんと張ったようなある種の緊張感があり、 充実感がありました。 それは散々苦労した上での自己満足感ではなかろうかと思い、少しいけばなの評価という事を考えてみました。

絵画、彫刻、音楽、その他の芸術と呼ばれるものは長い時間をかけて作品として残り、多くの人の、それも一つの国にとどまらず世界の、専門家そして一般の人々にあらゆる角度から評価を受け、淘汰され、いいものだけが残されています。各々の美については一言で言えないし、それを言う美意識も知識も持ち合わさないので差し控えま すが、それらに対する評価は゛無"から゛有"を生ずる芸術に対する評価なのです。それに引き換えいけばなは゛有"なる花から゛有"を作り出す疑似芸術であり、命に限りある花は長い時間残せず永久性のない作品なのです。刻々と変化する瞬時の美しさを評価しなければなりません。生けあがった花を見るのは、多くはいけばなの世界の人であり、他のジャンルの人や一般の人が見て 評価するのはごく少数で、それらの方々も芸術的観点からとらえるよりも、花そのもののうつくしさ、はたまた、めずらしさだけが先行してしまいがちです。この事を考えるといけばなは井の中の蛙が、井の中で、自己を、あるいは他の蛙を評価しているように思えます。つまりいけばなの評価は普遍的評価でなく、部分的、自己満足的評価に成りがちなのです。

生徒の花を評価するときは自分の美意識、知識、技術で評価するのですが、とてもおこがましくて図々しい事です。奢らず、威張らず、素直に、真摯に作品を見るよう心がけています。 (池坊中央研修学院 H5年 提出論文)

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