〜〜命を感ずるいけばな〜〜

いけばなを本格的に始めようと決めた頃、「花にかかわりのあるものについては何でも知っておく必要がある」と考え、フラワーデザインを二年、アートフラワーを八年も勉強してしまいました。しかし徐々にいけばな一つに絞っている自分に気づくようになりました。それはどちらも"命"と"光"を表現できず、大切にしていないと感じたからです。

フラワーデザインをほんの二年で捨てたのは、命あるものを簡単に惨たらしく切ってしまうからでした。 その世界では「美しい物をより一層美しく、その為に手を加える」のだそうですが、コサージュやブーケを作る過程では、切り花の命の源である水を吸う茎を取り除いたり、時には花びらをもバラバラにしてしまうのです。「美しいものをより一層....」という発想はいけばなと 同じなのですが、あまりにも西洋的決断のよさについていけないような気がしました。あちらから見れば「剣山のような痛々しい針の山に挿して」というかもしれませんが、もって生れた姿、形を少しでも残しているいけばなに軍配が上がりました。

また、フラワーアレンジメントの方は ラウンド型や、トライアンギュラー型、クレッセントといったような型にはめるいけ方はあまりにも西洋的であり、不均衡の均衡を尊ぶ日本的美意識を美しいと感じる私には、かなり苦しく自然と離れていきました.

深雪アートフラワーは命ある花というよりは絵画でした。色の調合の難しさは全く絵の世界で、手本は自然そのものでした。もともと絵を描く事に憧れていましたから楽しく出来上がったものに自分でもおかしいくらい惚れ惚れとしてしまうのでした。しかし、そこには何か満たされないものがあることを感じていました。それは"命がない"、"光がない"という事でした。生命感、躍動感、光が感ぜられないのです。

昔、畠山記念館で備前焼の素朴な壷に生けられた一輪のドクダミの花に感動した事があります。ドクダミというかわいそうな名前を持ち、香りも良くないその花が、凛として白く光り輝き、清い香りを放っているような感じさえさせるその一瓶一輪の充実感に圧倒されました。花を生けるときにその草木のもつ生命感に押しつぶされるときがあります。自然の中を生き抜いた力を感ずるのです。
命ある人間も草木もこの宇宙の中では、全く同じ場に立っているのです。だから同じ命を大切にしたいと常日頃思い、命を感じさせるいけばなは他に類を見ないと思うのです。 (池坊中央研修学院 提出論文 H3年 )Kyon Page に戻る