経 世 済 民

・比較編

 本題に入る前に、論理学に関する記述をしてみたいと思います。

 (僕のこれまで述べて来た理論は、発想が根本的に今までの経済学とは異なっています。それに関連して、ちょっと、説明しなくてはならない事があるんです)

 従来の自然科学には、このような理想が存在しました。
 抽象的な思考方法である『数学』が土台となって物理学が理解され、その物理学を元にして展開すれば化学が理解でき、その化学を元に展開すれば生物学が理解、その後は、心理学、社会心理学、と進み、やがては世界の在り様が解き明かされるはずだ……。
 と。しかし、それは飽くまで理想でした。現実にはそうはなっていません。それでは説明ができない事柄が多く存在します。これは取り分け科学的知識に造詣の深い方でなくても直ぐに分かる事でしょう。
 生物学→心理学 となると、それはもう顕著です。
 では、何故そうなっているのでしょう?
 一体、何が足りないのでしょうか?

 ここで"創発"と呼ばれる現象について、説明しましょう。"創発"とは、ここではその分野で初めて現われた性質の事です。
 ……この説明では、ちょっと分かり難いかもしれませんね(笑)。
 例えば、物理学では観られないのに、化学では観られる。化学では観られないのに、生物学では観られる。そういった、前の分野の展開では捉えられない性質が、その分野に現われる事を"創発"というのです。
 社会心理学的な意味での、「人」を物理学で捉えようとしても不可能でしょう。その場合、その「人」という存在は、社会心理学の分野で"創発"されたもの、となるのです。

 (因みに、余談ですが、よく人の心は自然科学では理解する事はできない、などと言う人がいますが、それは、実は、ちょーーっとだけ、把握の仕方に問題があります)

 つまり、従来の『数学』を土台にした自然科学の展開方法では、何故現われるのか分からない性質を"創発"と呼ぶのです。この"創発"と呼ばれる現象があるからこそ、自然科学の理想と現実の間にギャップが生じてしまっているのですね。
 さて、では、この"創発"が起こってしまう原因は、一体何なのでしょうか?
 もし、仮に、膨大な情報量や、要因の多種多様性のみにその原因があるのだとすれば、自然科学で"創発"が理解できないのは、単に時間や労力の問題だけだ、という事になってしまいます。膨大な研究費用と膨大な時間をかければ(少なくとも理論上は)、やがては理解できるようになるはずでしょう。
 しかし、果たして、それは本当にそうなのでしょうか?
 もしかしたら、これは、そういった量的な問題ではなく、質的な…… つまり、これまでの自然科学の思考方法に、根本的な問題があるからなのかもしれません。

 ここで、『数学』という思考方法についての性質を少し書いておきます。
 数学は、物事の仮定条件を便宜上シンプルに捉え、その条件を利用して演繹的に思考を展開し、様々な結論を得る、といった思考方法です(因みに、だから、その仮定条件が通用しなければ、数学的結論は、現実世界では適用できなくなってしまいます)。
 シンプルに捉えることによって、物事を非常に分かり易く理解しているのですね。もちろん、その展開の過程で、より高度になれば難解さは増していきますが、それでも、そこに捉え難い"複雑さ"は存在しないのです。
 その結果として、『数学』という思考方法は、物事を単純な 原因→結果 という因果関係で結び、そこにある法則を解く手段として、卓越した効果を発揮したのです。
 では、もし仮に、単純な因果関係では捉えることのできない現象が存在したとしたならどうなるでしょう?
 もし、そんな現象が存在したなら、それは数学では非常に扱い難い、という事になりはしないでしょうか?
 例えば A→B という因果ではなく B→A というフィードバックも存在し、その二つが起こる事によって成り立っている現象が存在したなら。
 どちらか一方に注目をするのならば、数学でも理解することが可能です。 A→B のみで論を展開する事も、或いは B→A でのみ論を展開する事も、どちらもできる。
 しかし、それら二つを (A⇔B) というように、同時にとなると…、これが少々厄介になってくるのです。
 また、こんなケースも考えられるでしょう。
 要因が多数絡まり、それらを分解して把握する事ができない場合。
 A→B という要素の他に、C→B という要素も存在し、 (A→B) と (C→B) という二つを関連させると、単純な式では理解ができない。
 つまり、部分を切り離してしまうと、全体にあった性質が消えてしまうケースですね。
 もちろん、これに先に述べた(A⇔B)というケースが重なると、更に数学で捉える事は困難になって来てしまいます。
 そして、実は現実世界には、こういったケースが散見しているのです。
 では、この数学の"弱点"とも呼べるものと、先に述べた"創発"とに、何か関連があるとは考えられないでしょうか?

 今までの自然科学が、この現象(便宜上、ここではそれを"複雑さ"と呼びます)を全て無視して来た、というと或いは言い過ぎなのかもしれません。
 しかし、数学を基本とする論理体系では、その"複雑さ"を上手く理解する手掛かりがなかった事は事実です。
 実際に、過去、この点は多くの人物によって指摘されてきた(夏目漱石の随筆についての弟子の一人、寺田寅彦が著した寺田物理学は、その一つであると言われています)らしいのですが、その理解が大きく前進をする事はありませんでした。
 しかし、近年になって、そこに一つの大きな変化があったのです。
 それは、「コンピューターの誕生」です。
 コンピューターによって、そこにシミュレーション・ワールドを創造し"複雑さ"を持った世界の"振るまい"を観察する。
 そういった事が可能になったのです。
 そして、それによって、様々な事柄が分かってきました。プログラムの展開によって、雲の形や山の形や木の形が、自動的に形成されるといった現象(自己相似的な展開)が観察できたり、或いはカオスやそれに関しての初期値敏感性などの特性が確認されました。しかし、それは、それだけでなく…… そこに、なんと、"創発"現象をも観察する事ができてしまったのです。
 この"複雑さ"を研究する分野は、『複雑系』という名で呼ばれていますが(ただし、この分野の研究は、必ずしもコンピューターのみに頼っている、という訳ではありません)、その、"複雑さ"を扱えなかった数学の弱点…… いえ、自然科学の弱点と言ってしまってもいいでしょう…… を補完して在るともいえる分野で"創発"が確認できてしまったのです。
 つまり、"複雑さ"と"創発"との関連が一層明確になったのです。

 そして、これで、自然科学の理想と現実とのギャップが、思考方法の根本的な問題によって生じている可能性が大きい、という結論を導くことができたのです。

 さて、ここで少し、今までの事柄を纏めてみたいと思います。
 まず、自然科学は『数学』を基本にして(飽くまで、基本です)、成り立っている。
 その数学は、物事を単純な因果関係で結び理解をする、といった作業において効果を発揮する思考方法だが、単純な因果関係で捉える事のできない現象に対しては、それほどの効果は期待できない。つまり、"複雑さ"に対しては弱い、という弱点がある。
 そして、その弱点を補う"複雑系"という分野で、今までの自然科学では捉えられなかった現象の幾つかを説明する事ができた。

 ( A→B というように、単純な線で結んで理解する、という発想には限界があるのだ、という事ですね)

 さて、経済学に関する説明で、どうして長々と自然科学に関する記述をして来たのかというと、「経済学」が、実は自然科学を模して発生したものだからです。
 つまり、「経済学」にも、自然科学と同じ"弱点"があるのですね。
 では、少し、これから簡単に「経済学」発展の歴史についての記述をしたいと思います。

 資本主義経済を提唱したのは、もちろん、国富論を著した、あの有名なアダム・スミスです。自由に放っておけば「見えざる手」によって市場は動き、経済は自然にベストな状態へと向う、という市場万能主義は、その後の古典派経済学の、基本的な考え方になっていき、今でも新古典派経済学にそれは継承されています。
 しかし、本当にその主張が全て正しかったのか、それには多くの疑問が残ります。
 ですが、ともかく、アダム・スミスの主張は多くの国で受け入れられ、そして、豊かな経済発展を齎しました。ただし、それは"経済"に限った場合です。社会全体を考えるのならば、資本主義経済の影響は必ずしも好ましいものばかりではありませんでした。
 資本家と労働者の間で、貧富の格差が増大し、苦しい生活を強いられる人達がたくさん現われました。更に、それに伴なうスラムの形成、治安悪化、衛生面の悪化、様々な悪影響を資本主義経済は齎したのです。
 (それに反逆をする形で、労働者階級の闘争が起こりました…… マルクス主義などの思想の誕生です。そして、それが後の、社会主義国家の基本理念になっていったのです…… が、 ただし、それらの国家は、どうやら、思想家達の言葉の全てをしっかりと理解していた訳ではないようです)
 そんな中で、「市場万能」は本当なのか?「市場の失敗」は有り得ないのだろうか?という疑問が徐々に囁かれ始め、そして、世界恐慌が起こった事によって、ついに経済学に革命が起こりました。
 それが、「ケインズ革命」です。
 ケインズという経済学者が、「市場万能主義」に異を唱えたのです。
 ケインズ学派経済学の誕生です。

 ここで、二つの大きな学派が歴史上に誕生した事になります。
 新古典派(古典派)経済学
 ケインズ学派経済学
 この二つの学派の大きな違いについて説明しておきましょう。

 新古典派(古典派)経済学は、先にも述べた通り、市場万能主義を基本としています。「全てを市場に任せておけば、経済は良い状態へと自然に向かうのだ」。これに対して、ケインズ学派は「市場の失敗は必ず起こる。だから、なんらかの介入をしなくてはならないのだ」という主張をしています。
 新古典派が、市場万能の論拠としている一つが、「セイの法則」と呼ばれる法則が成り立つ事で、これは広範囲長期間では、全ての生産物は需要され、消費される、という、平たく言えば、長い目で観れば作ったものは全て売れる、という法則です。
 つまり、生産量(供給量)に対しての需要は、常に満たされているのだ、という法則が成り立つとしているのです。
 式で現すとこうです。
 総供給=総需要 (社会全体)
 もし、これが正しかったのならば、生産物を生産すれば生産する程、経済は発展をする事になります。需要は、供給に合わせて無限に増加するのだから、生産量を抑える必要はないのですね。
 (前章で説明した、人間の欲望を無限にしている、前提条件は、これを意味しています。しかし、もし、仮に、これが正しいのであれば、ワークシェアリングが成功するはずはありません。ワークシェアリングは、生産量を抑えているのですから)
 これに対してケインズ学派は、総需要が総供給を下回る場合もある、としています。
 式で現すとこうです。
 総供給>総需要 (社会全体)
 需要がなければ生産物が余り、人手も余ってしまいます。当然、何らかの対策を取らなければなりません。この状態は不景気を意味するからです(注:これは、僕の通貨循環モデルにおける、生産効率が向上し失業者が出ている状態と同じです)。総供給(総生産量)を下げる…… (これは、ワークシェアリングによって執られている方法です) か、或いは国がなんらかの関与を行って総需要の方を"無理矢理に"上げるか。

 さて、この二つの考え方、どちらが現実的であると思えるでしょうか?
 ほとんどの人は、ケインズ学派の主張が正しいと考えるのではないでしょうか?
 (ここで話を元に戻しますが、)
 実際、"世界恐慌"を経験した後は、多くの国で、ケインズ学派に基づく政策が執られるようになっていきました。
 (アメリカのニューディール政策などもこれに当ります)
 ですが、この考えに基づいた方法は、やがて大きな問題を発生させるに至ってしまったのです。
 それは、莫大に膨らむ財政赤字。
 (財政赤字問題は、日本独自の問題という訳ではなく、実は世界各国で発生しているのです。先進国の中で、一番、解決が遅れているのは間違いなく日本ですが……)
 "無理矢理に"総需要を増加させる為に行われていた方法が問題でした。
 多くの場合で、生活者が生産物を需要しないのであれば、国が需要すれば良い。という発想でそれを行ってしまったのです。
 国は、多額の公共投資を行い、不足している需要を補おうとしました。ただし、増税を行ってしまっては国民の負担になると考えた為、資金調達は、借金によって行いました(それでも、いずれは国民の負担になるのですが)。そして、結果として、財政赤字が膨らんでいったのです。
 それらは、投資としての効果がなければ、単なる無駄遣いです。
 しかも、その"無駄遣い"によって、巨額の利益を得られる人達がたくさん現われ、その利益を護ろうとしてしまったから、さぁ、大変です! 国の経済政策として、国民の為に行われているはずの公共投資は、その名目に反し、一部の人達が莫大な利益を得る為の道具に貶められ、そして、結果として、環境破壊などを加速させてしまったのです。

 ……と、ここで、一つ、国の執った方法に誤りがある事に気付くのではないでしょうか?
 例え、国によってのものだとしても「公共投資」によって、通貨は遣われています。通貨を遣う、とは、もちろん、『通貨の循環場所』を増やす行為に他なりません。循環場所なのですから、通貨が循環しなくてはなりません。という事は、国が通貨を遣っているのですから、その分、国に収入が増えなければならないのです。
 ですが、
 投資としての効果のない"投資"では、税収の増加は望めません(一時的な効果しかない公共事業も、経済政策の名目でたくさん行われました)。ならば、増税を行わなければいけないはずですが(恐らく、選挙を意識して)、それも行っていない。しかも公共投資は継続して行われている。循環がなければ増収は有り得ませんから、借金に頼ってそれを継続させるしかない……
 莫大な財政赤字は当然の帰結です。
 『通貨の循環場所』を増やす、という概念が抜け落ちていたが為に、そんな事にすら気付けなかったのです。

 さて、本来はケインズ学派が間違っていた、とするべきではないのですが、この財政赤字問題によって、古典派経済学は、再び息を吹き返しました。そして、なんだか矛盾するネーミングではあるのですが、「新古典派経済学」と呼ばれるようになったのです。
 そして、ケインズ学派と新古典派は、それぞれこのような評価が定説となりました。

 ケインズ学派は、短期間で正しく、総供給>総需要の時に効果を発揮する。また、需要面から経済を捉えたものである。
 新古典派は、長期間で正しく、総供給<総需要の時に効果を発揮する。また、供給面から経済を捉えたものである。

 この短期間、長期間、という時間が一体どれだけの長さを指し示しているのか分からないのが、僕としては少し気になりますが、この評価は納得できます。ただ、超長期間の場合でも、果たして新古典派の主張が成り立つかは疑問です。 ……て、もちろんそれは、生産物の種類の増加には限界があるはずだ、という予想を立てているからですが。

 (因みに、新古典派は、アメリカの経済政策で主に取り入れられていて、アメリカに習っている日本の小泉政権も、これを取り入れた政策を展開しています)

 さて、非常に簡単にですが、これまでの経済学の歴史を簡単に観てみました。最後に記述した二つが、現在の経済学の大きな主流になっています。
 もちろん、この二つとも、基盤には数学がしっかりとあります。では、先の数学の弱点を踏まえた上で、この二つの経済学を見比べてみると、何か気になる点があるとは思わないでしょうか?
 ケインズ学派は、需要面。
 新古典派は、供給面。
 つまり、それぞれ一面のみを重視して、経済というものを捉えているのです。
 本来、この二つは切り離しては捉えられないものです。しかし、数学を基盤として発展をした経済学のニ派は、どちらも需要と供給のそれぞれ一面のみを重視して理論を発展させてしまったのです。
 数学の弱点。それは、 A→B といった単純な因果関係においてしか、効果を期待できない、という事にありました。つまり、 A⇔B といった相互作用している現象は中々捉えられないのです。
 もう説明しなくても分かると思います。
 需要と供給の関係は、相互作用しているのです。需要→供給のみでもなければ、供給→需要でもありません。
 需要⇔供給 なんです。
 どちらか一方にしてしまっては、それを正確に捉える事はできません。
 これは思考ベースに数学を用いていたからこそ、起こってしまったのではないか?と考えられます。
 (ケインズ学派においては、通貨を循環しているものとして捉えているので、これはよりはっきりと言えると思えます。恐らく、ケインズは半ば僕と同じ事を考えていた。しかし、展開に用いたのが、数学という思考方法であったが為に、この"理解"までには辿り着けず、結果、需要面からのみの経済学になってしまった)
 しかし、僕の理論では、この点を補って展開してあるのです。従来の数学からは離れ、新種の、この二つを同時に捉えられる方法を考え、そして論を展開したのです。
 これが、僕の通貨循環モデルと、従来の経済学との決定的な差であり、また、補っている点でもあります。

 経済というものを捉える場合、従来の数学における弱点はほぼ致命的である、と言ってしまってもいいかもしれません。
 恐らく、数学を基盤に据える為に行ったのだろう、"単純化"も幾らなんでも現実離れが酷過ぎます。
 (僕の理論もかなりの単純化を行っていますが、既存にある経済学ほどではありません)
 違いは、まだあります。
 恐らく、先の点に伴って発生したものであるとは思いますが、既存にある経済学では消費意欲を左右する一番のものを"通貨"である、と捉えています。消費意欲は通貨による収入がどれだけあるかによって決まって来る。つまり、消費意欲を刺激するのは所得である、としているのです。
 だから、消費意欲を刺激する際に行われる政策は、減税や公共投資など、通貨をより多く生活者に供給する事が主流です。
 しかし、僕は、消費意欲にとって、通貨は補助的に働くに過ぎない、と考えているのです。
 それよりも重要なのは、"生産物"であると。
 どんな生産物がどれだけあるか、が、消費意欲にとっては重要である。生産物が存在して初めて需要は産まれ、そこに通貨が巡る事によって消費活動は起きる(だから、新しい生産物が誕生する事が重要)。
 と、しているんです。
 これは、実は考えてみれば当たり前です。
 無人島にいたらば、幾ら通貨を持っていようと関係ありません。消費活動は行えない。それよりも一歩進んで、一つだけ商品(生産物)があったとしたらば、その商品の限界需要までは消費するでしょうが、それ以降は消費しないはずです。
 幾ら、所得が多くても通貨は余り、余った通貨は貯金か寄付金になるでしょう。
 (これは、金持ちが通貨を余らせる原理とほぼ同じです)
 後は、時間の概念でしょうか(これも、経済理論としてはあまり聞きません)。
 (前述しましたが)消費活動に必要な時間が充分になければ、消費意欲は鈍ってしまう。だから、労働時間が長過ぎると、消費活動を抑制してしまうのです。

 さて、殊更、違いばかりを強調してきましたが、もちろん、通貨循環モデルと既存の経済学で、共通している部分もたくさんあります。いえ、実を言ってしまえば、僕が完全に否定しているのは、「需要が無限である」という前提条件くらいのもので、後は補っているといったニュアンスの方が強いのです。足らなかった点を補っている、のですね。
 『経済』という同じものを観ていて、視点が違うだけなのだから、大差がないのは当たり前ですが。
 因みに断っておくと、これは僕の理論の方が優れている、という意味ではありません。
 (そもそも、別のレールに乗っているものなので、比べる事はできないのですが)
 既存にある経済学の方が(当たり前ですが)、より発展していて高度です。
 ただ、視点が違うので、観え易いものがある、というだけの話です(だから、補っているのです)。
 また、個人単位でならば、例えば、消費活動を活発化させる為には、それだけの充分な時間が必要だとかいった、僕と同じ主張をしている経済専門家は多いですし……、他にも所得格差の是正、恒常的な需要の為に新しい産業が必要である(つまり、僕の通貨の循環場所を増やす、と言う論と同じです)といった主張もよく聞きます。
 恐らく、多くの人が、僕の語って来た事実に少なからず気付いているはずです。しかし、それはしっかりとした概念を形成するにまでは至ってはいないのでしょう。だから『通貨の循環場所』を増やす、という事を行えば、支出と収入が同時に増え、生活者の負担にならないのだ、といった事を理解できないでいるのです。それは、恐らく、パラダイム…… (思考する為の基盤をこう言います) の変革が起こっていないからだと考えられます。
 実は、歴史上、こんな事はよくあるのです。
 先のケインズ革命でもそうでしたし、フロイトの無意識も、アインシュタインの相対性理論も、提唱される前に、似たような事を言っている人の存在はあったのです。
 しかし、発想を転換する切っ掛け、その一歩がなければ、それは、くすぶったままでい続けるのです。
 この論は、その「発想を転換する切っ掛け」です。 (変えようぜ、世界を)

:参考文献 

「複雑系入門」 
(NTT出版)
著者 井庭 崇 福原 義久

「数学嫌いな人のための数学 数学原論」
(東洋経済新報社) 
著者 小室 直樹

・難しい童話表紙へ