文化は潤いある暮らしに欠かせぬものである。あるいは、安全な生活を保障する先人の智慧の結晶である。しかし、魂を再注入する作業がなければ、それは単なる形骸となる。生きた人間を縛るものともなる。
文化は、生活を愉しむ先人の工夫の産物である。こうすれば、この地で、”美しき生”を楽しめるよ、というのが文化だと、筆者は思う。
食文化、笑いの文化、生と死の文化、.....文化は、かくも多様である。文化は、形と魂よりなる。
利己主義、個人主義、集団主義の3つの文化がある。
利己主義と個人主義は違う。利己主義は、利己の損得のみを考える。個人主義は、自分の尊厳と、他者の尊厳を、対等なものとして考える。
集団主義は、個人主義に勝るかのような考えがある。集団主義は、内外の区別を持つとき、極めて危険なものである。戦前のナチス、日本、そしてスターリン下のソ連...。いずれも、利己的な集団主義が、何をもたらすかを、雄弁に物語っている。
日本には、個人主義のすばらしい先輩がいる。親鸞である。親鸞は言う。「弟子一人ももたずさふらふ」と。釈尊も、また、あたかく豊かな「個人主義」の人である。
個人主義は、地球上のあらゆる存在の対等性を前提とする文化である。個人は、「社会的個人」である前に、「宇宙的個体」である。
宇宙と、直接向き合う「個人主義の文化」が、地球の多様な存在の共生を創り出すために、求められているように思う。
宇宙と直接むすびついて、宇宙のリズムでいきる「個人主義(宇宙的個体主義)」の文化を花開かせたい。
| 利己主義 | 個人主義 | 集団主義 |
| 自分中心 | 宇宙調和 | 集団中心 |
| 競争 | 自立・共生 | 同化 |
| 自力依存 | 他力感謝 | 集団依存 |
利己主義も集団主義も、農耕社会によって、生み出され、近代の工業社会で、確立された。それは、自然から人間を隔離し、人間の根元的な生命力を削ぐ文化である。同時に、生命の源である地球破壊を肯定する文化である。
文化とは、個人と他者の、人間と人間以外の存在との、折り合いのありようを形にしたものであると思う。それは、地域によって、個人によって異なる。
「ろう文化」という言葉がある。筆者も、言葉としては知っていた。ろう者の友人と語る機会があった。手話で語るとき、嬉しい時は、嬉しい表情をしない。手の形だけ「嬉しい」という「手話」をしても相手に通じないよ、と指摘された。「ろう文化」の豊かさとすばらしさに、気づかされた。日本文化は、大和文化だけではない。大和文化は、多様な日本文化の一つにすぎない。「ろう文化」は、日本列島に住む人々の多様な文化の一つである。それは、大和文化と対等な、独自のすばらしい文化である。
最近、「東北学」という雑誌が出版された。東北は、大和と対等な文化を持っている。九州も、出雲も、大和と対等な文化を持っている。
今日の日本の支配的な「主観的認識」とは違って、多様な文化の共存した地域として日本はある。大和文化を頂点とし、またすべての日本列島の文化は大和文化に収斂されるとする「単一文化」論の貧弱さから、そろそろ解放されてもいいのではないか。日本列島の文化の多様さと豊かさを垣間見た筆者は、生きている喜びを、誰もが持ってほしいと思う。「大和単一文化」の幻想から誰もが目覚めることを、祈るのである。
| 海の文化 | 盆地文化 | 森林文化 |
| 沖縄文化 | やまと文化 | 東北文化 |
島国根性、自文化中心主義は、やまと文化に強いが、日本列島の多様な文化がすべてそうだというわけではない。やまと文化は、盆地文化であるために、閉鎖性と排他性を、もちやすい文化である。
沖縄、東北、アイヌの文化は、海の文化、森林の文化であり、むしろ、異文化受容の、開かれた文化である。出雲文化も、海の文化の要素を強く持っている。
古里や地域の文化のルーツは、そこ独自のものである。今、地域の個性を掘り起こすこと、文化の多様さや異文化受容の豊かな実りに気づくことが求められているように思う。地域の「先住文化」の復権は、多様な文化が共生する21世紀の地球文化を創造していくために、大切だと思う。