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”Ein Sack voll Toene”
★僕がドイツに留学していたときのこと。
ある朝学校に行くと守衛のおじさんが僕を呼び止めて新聞を見せてくれました
「コレおまえじゃない?」
なんとそこには僕の写真がでかでかと載っているではありませんか。知らぬ間に後ろから撮られたようです。
タイトルは”Ein Sack voll Toene”
アインザックフォル・テーネ((袋)いっぱいの音) |
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「コントラバスで座席取り」 |
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ヌケトルンデ氏がイタリアにコンクールを受けに行ったときのこと。
ヨーロッパの長距離列車は片側廊下に6人用のコンパートメントがずらっと並ぶスタイル。そこにコントラバスを持って乗り込もうと思うと一部屋占領しないと載せられません。
ところが折悪しくギリシャ・トルコからの出稼ぎ労働者の帰省ラッシュにかち合ってものすごい混雑。皆布団袋のような大荷物を抱えて乗り込んでいるので通路を通ることすら難しい有り様で途方に暮れ、「え〜い」とばかり窓からコントラバスを個室に突っ込んでとりあえず一部屋確保。
後から来る人がで〜〜んと寝そべっているコントラバスにひるんでいるすきに悠然と乗り込んで座りましたとさ。^^;)
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「魔王を作曲しなかったシューベルト」 |
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歌曲王F.シューベルトがまだ二十歳でかの有名な「魔王」を書いた時のお話。
彼の友達が友情から出版社ブライトコップに出版してもらえないかとシューベルトの「魔王」の手稿を送った。ところがこの出版社は出版するには値しないと判断。何を勘違いしたかドレスデンにいる同姓同名のF.アントン・シューベルトと言う当時既にいっぱしの作曲家としても有名だったコントラバス弾きの所にこの原稿を送ってしまう。
さあこのコンバス弾きの怒ったこと、怒ったこと
「一体何処のどいつだ!私の名をかたってこんなひどいカンタータを書いた奴は!」
一体あのリートの何処がカンタータなわけ?あの素晴らしい曲の何処がそんなにひどいわけ?
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"Street musicians in Siena" |
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毎年夏にイタリア・シエナで行われている夏期講習会でのお話。
現在京響首席三宅氏、バイエルン放送響首席ブラウン氏、ブリュッセル音楽院教授ジーベンス氏、と僕は当時(一体いつの話?)そろってF.ペトラッキ教授の講習を受けておりました。
あるとき僕たちはお小遣い稼ぎをしようと辻音楽師のごとくコントラバス4本でシエナの街角で「犬小屋のシュトラウス」「ブランビー」「ラウバー」etc.を演奏。前に広げたコントラバスのカバーにはみるみるリラの札束の山!これに味をしめて場所を変えて弾くこと数回、その晩はもちろん盛大な宴会です。
ところが次の日ペトラッキ先生に呼び出され「何ということをしてくれたのだ!退学モノだ!」と厳しく注意され全員ひどくしょげ返っておりました。
ところがところが、後で聞くところによるとその前の年ペトラッキ大先生自らが僕たちと全く同じコトをして「教授たるモノがなんたることをしてくれたのか!」と音楽院からひどく叱責されたのだとか・・・・。 な〜〜〜んだ。
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「組み立て式コントラバス」 |
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元ベルリンフィル首席・R.ツェペリッツ氏を空港に迎えに行ったときのこと。
入国ゲートからさっそうと出てきた長身の彼は格好良く小脇にコントラバスを抱えておりました。と思いきや、楽器の下半分がなくネックの部分をカヴァーに包んだものだけを抱えていたのです。どおりで颯爽と歩いてきたわけ。
楽器の本体とネックをネジで留める分解式コンパクトタイプのコントラバスで、楽器の中に立ててある魂柱は片方だけを接着してあるんだとか。
「5分で組み立てられるようになった!」と彼は自慢げ。
どうしてそんなことをするかって?ボディだけが入っているトランクの大きさだと手回り品としてただで預けられるものが「丸ごとコントラバス」だと目を剥くような超過料金を取られるんですもの。
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「コントラバス・バラバラ事件」 |
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「コントラバスの神様」と言われているウィーンフィル首席だったコントラバス独奏者シュトライヒャーの楽器にまつわる話。(彼の通訳を務めたときに聞きました)
時は第二次世界大戦終戦直前、当時彼が住んでいたのはポーランドのクラカウ。ソ連が侵攻してきて占領下にはいるというので金目のものを隠さないと略奪の憂き目にあうと、家中の大事なものを地下室に隠して煉瓦と漆喰でしっかり塗り込めた。
その中に彼の愛器も入っていたんだけれども、ご存知のように地下室はすごい湿気。終戦後にもう大丈夫と入り口を取り壊して取り出してみると板をくっつけている膠が全部湿気でふやけてしまい楽器はバラバラに。戦争で仕事もないし板を乾かそうと麻袋に入れて屋根裏部屋にほり込んでおいたそうな・・・。
ところが今度は板が乾燥しすぎてグニャングニャンにそっくり返り薄焼き煎餅状態に。
シュトライヒャーがソロ活動を再開しようとした時、組立て直した楽器屋さんが板と板をぴったり付けるのに本当に苦労したそうな。
それが今彼が弾いているウィーンの古楽器レンベック(彼の教則本に写っている楽器・よくよく見ると表面がぼこぼこだ、無理矢理くっつけたのかも)
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シュペルガーの研究家として有名なドイツT教授。彼は旧東ドイツの某オーケストラ首席・独奏者として、世界各地の音楽祭・コンクール等に活躍していた旧体制下では別格扱いの素晴らしい音楽家だった。
そんな彼でもやはり不遇をかこっていたらしくある年ついに西への亡命を決意する。当時の東ドイツ国境は自動小銃を持った軍人がうようよいる水も漏らさぬ厳重警備。普通の人にとって亡命は命がけの行為だったが、彼は毎年夏にバイロイトで開かれるワグナー・フェスティバルに招待され、家族もフリーの特別パスポートを持っていたのでそれを使い何往復もして家族全員が無事亡命に成功した。
ところがなんという運命の皮肉か、彼が亡命したその年の末なんと西と東を分かっていた国境がなくなりドイツは一つに戻ってしまう。西側では彼の望むポストがなかなか見つからずフリーター生活を送る事となる。元のオーケストラに戻ろうと打診するも答えは「ノー」。やはり恨みを買ったのだろうか?
その後何年も経ってからようやく教授のポストを得たという不運なお話。
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「怖い怖い冗談」 |
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ベルリンの超メジャーオペラハウス・イスラエル公演の時 のお話。
そこの首席 コントラバスR氏、ホテルのバーでチェックの時冗談のつもりで「アドルフ・ヒトラー」のサインをしたことが外交問題に発展、その公演旅行は即刻中止、指揮者・歌手・オーケストラ・裏方全員即帰国。もちろん彼は即刻首の上、年金の受給資格も剥奪されたとか・・。
イスラエル人のドイツに対する微妙な感情を考えなかった哀れなバス匹の物語。
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「男はみんな・・・」 |
ドイツ・マルクノイキルヘンで行われた国際コントラバスコンクール・本選の時のこと。
本選に勝ち残った3人のコントラバス名手のうち唯一人の女性バス奏者がステージで演奏中にそれは起こった。
コレはやはり彼女が優勝かと誰もが思っていた名演奏が突然止まり、彼女今にも泣き出しそうな顔。
あろう事か弓のネジがバカになり毛がゆるんでしまったのだ。すわ一大事とばかりに審査委員たちはどやどやとステージの彼女の所へ殺到。
「誰か代わりの弓は!」と叫ぶモノ、、彼女の弓をどれどれといじくり回すモノ、あれやこれやで大騒ぎ。
結局代わりの弓で演奏を続け彼女が見事優勝を飾ったのだけれどもあれがもし無垢つけき野郎だったらどうだったんだろう?誰もが考えました。だって彼女は素晴らしい金髪ゲルマン美人だったんだモノ・・・。
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