過去の“ちょう”

のコラム

2005年9月 〜 2005年12月分
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 15日、本屋さんの完了検査が無事おわった。
 騒動の真っ最中だからどうなるかと思ってたら、やるべきことを淡々とチェックして、まことに爽やかな検査だった。
 で、その本屋さんは20日(火曜日)にオープンする。(25日からは「ふで箱フェアー」のオープニングパーテイーをします。)西武池袋線練馬駅北口徒歩3分。日の出湯近くの「須弥(すや)書店」ですゆえ、探してみてくださいな。雑誌を中心にした本屋です。一目みればすぐわかる。ヘンテコな建物だから。
 でもね、自分ではとても気に入ってるの。下町の駄菓子屋みたいな本屋って、なかなかよくない?

2005.12.17


 苦労の果てに練馬の本屋さんがもうすぐ完成、今月20日にオープンすることになった。
 ところで、この本屋さんの確認申請先が噂の「イー・ホームズ」。
 業務停止命令発令か?なんて騒ぐおかげで、完了検査が受けられるのかどうか不安だったのだけれど、たくましいものですなあ、ちゃんと「15日に検査しますからお金を振り込んで」という連絡があったよ。
 鎌倉の住宅もじつは確認申請先が同じくイー・ホームズ。でも日暮里のマンションのほうの申請先は「ビルデイング・ナヴィゲーション」で、うちの事務所はこのところすべて民間の検査機間ばかり使ってる。
 思うのはしかし、姉歯のおかげで設計者の信用がすっかりなくなったということだ。設計者の工夫でよりよくするために現場で変更したりするところまで疑いの目で見られてしまう。図面よりも、建物の強度を左右するのは現場の工事のしかたの方なんだけどなあ。

2005.12.12


 11月29日は鎌倉の住宅の配筋検査。建てぬしさんにも来ていただいて様子を見てもらった。なにしろ世の中は「姉歯事件」で大騒ぎだから、ちゃんと建てぬしさんにも見ていただかなきゃね。
 敷地のなかにどうやって建物が建つのか、それが、基礎の鉄筋を配置してみるとよくわかる。住宅にしてはちょっと大げさな基礎だけれど、今回は木造とコンクリートとの混構造だもの、どうしてもこれくらいの大きさの基礎にはなるよなあ。
 と、うろうろ歩き回りながら、「レトロなモダーン」っていうことを考えていた。
 20世紀のはじめに出現したモダニズムの建築は、いまではとってもレトロに見える。無駄なものをいっさい剥ぎ取ったシャープなかたちが、なぜか過ぎ去った時代の物語を感じさせちゃうのね。モダニズムというのは抽象化じゃなかったんだなあと、ぼんやりと思う。あれはあれでモノのリアリテイーに迫っていくやり方だった。
 で、さて、この住宅ではモダニズムを素材の側からレトロにしていってみたいって考えているんだけど、どうなることなら。

 2005.12.3


 11月25日午後1時、東大にいった。工学部1号館。
 階段をのぼり、ウロウロしていたら突然横の扉があいて、難波和彦さんとはち合わせ。あれ、なんでこんなところにいるの?とおっしゃる。じつは松村秀一さんと対談しに来たんだけど、時間がまだ早いから見学デスっていったら、じゃ案内しましょうと、みずから先にたって製図室のなかを連れ歩いてくれた。

 「むかしは中庭だったんだよ」という、だだっ広い製図室に、学生が10人ばかり。ここにいるのは学部の3、4年生で、院生はあっちに自分の机があるの、と懇切丁寧に説明してくれる。ふーん、いまもむかしも建築学科の製図室ってのは変わらないのね。あふれるゴミの山のなかで模型をつくってる。
 さてしかし、まだ時間があるぞ。こんどは3階にあがり鈴木博之さんの研究室の前にいって名札を見たら赤だ。どうやら今日は留守らしい。しかしまあ、さすがは東大。この建物ひとつに難波さん、鈴木さん、松村さんと、豪華メンバーが群がってるんだもんね。
 ウロウロしているところに新建築の佐藤さんが、カメラマンを従えてやってきた。3人で松村さんの研究室へいき、ようやく対談がはじまる。いつもはインタビューだから、おれはあんまりしゃべっちゃいけないだけれど、今回は対談だからちゃんとしゃべんなきゃ。

 その日、夜、テレビのニュースで「設計事務所の所長が自殺」という速報が流れた。かの姉歯事件に絡んだものらしい。痛ましいかぎりだ。テレビに登場してトクトクと語るやつらの顔を見ているとひたすら腹立たしい。なんとも気が滅入る事件だなあ。

2005.11.26


 枯葉の散る季節に日本中を走り回るようになってから、もう5年になる。
 19日土曜日、東北新幹線で郡山の駅につき、にぎわう西口を避けて東口に回れば、そこはススキが一面に生い茂る原っぱに新しくつくられたロータリーで、福島県の職員の方が迎えに来ていた。
 県の車に乗せられてビッグパレット(北河原温の設計だと思う)へ向かい、90分の講演をこなして東京へもどればすでに宵闇がせまり、なんともはやこの季節は心まで寒いぞ。
 その前日18日は鎌倉の家の現場にいた。すでに土工事がはじまっている。年内に基礎工事を終えなくてはならんのだけれど、この調子ならなんとかなるな。で、さらにその前、16日は京都にいた。キャンパスプラザで例のごとく90分の講演。なんと会場に鴨川建築塾の森本さんが来ていた。ホールで森本さんと少し話して東京に戻ったらすでに深夜だ。新幹線がもはや通勤電車って感じ。

 その真っ暗やみのなかを無気味にひた走る新幹線のなかでぼんやりと考えている。松村秀一さんとの対談では何を話そうか。
 新建築の佐藤さんから電話があって、「在来工法ファイル」の連載が終わったところで締めの対談をやれとのこと。ふむ、そうなれば対談の相手は中谷礼仁か松村さんしかいない。結局、松村秀一さんにお願いすることになったのだが、さて、何を話せばいいの?
 考えは切れ切れに散ってまとまらず、ただいたずらに歳を食ってしまった自分の顔が、暗い車窓に映っているのを、おれはしみじみと眺めている。

2005.11.20


 11月9日、鎌倉の家の地鎮祭をやった。よく晴れて、とても気持ちのいい日。神主さんの低い唸り声で神様を呼びおろし、再び天に帰すまでのほぼ30分間の儀式なんだが、無事に終了し、それから地縄を張って建物の位置を決めた。いよいよ工事がはじまる。

 その週の土曜日12日は中学の同窓会で、いつもの仲間が集まった。その日は青森からリョーも来ていた。リョーとは小学校、中学校、高校と、ずうっと同じ学校だった。家も、パチンコ屋をやっていたおれの家の隣の酒屋だった。
 リョーはいう。おまえは本ばっかり読んでたよ。
 ふむ、そういうおまえはスポーツばっかりやってたが、その仲間に対するさりげない気の配り方をみれば、やっぱり辿った苦労はおれとおんなじだったんだろうなあと、はや初老をむかえつつある幼馴染みの顔を、おれはしみじみと見つめてしまったのだった。

 リョーとおれが通った高校の名前は青森高校という。はるかな先輩に太宰治と寺山修司がいた。
 やはり青森高校卒という田澤拓也が書いた「虚人・寺山修司伝」(文春文庫)を読んでいたら、寺山修司がいたころの青森高校のことが克明に書いてある。どうやら寺山修司が通っていたのはおれたちとおなじ校舎だったらしい。田澤拓也はこう書いている。

 -------四月になっても八甲田山の頂は白く輝く残雪におおわれている。やがて山頂付近に白くアルファベットのXYZの三文字の雪渓を残して山は五月の青さを増していく。
 昭和二十六年春、修司は青森高校に入学した。青森高校(昭和二十三年春まで旧制青森中学)は戦前から県内有数の進学校である。前年の二十五年春に青森高校と青森女子高校(旧制青森高等女学校)が統合されて男女共学の青森高校が誕生していたが、まだ男女の校舎は別々だった。
 そして修司らの入学と同時に、郊外の筒井に新築されていた新校舎に女生徒たちが引っこしてきて、初めて男女共学の授業がはじまったのである。職員会議で何度も激論がかわされた末、ホームルームも授業も全面共学と決まったが、校内にはまだ旧制青中以来のバンカラの校風が色こくただよっていた。

 男女共学が「激論」の結果だなんて、いまとなっては嘘みたいな話だけれど、田澤によれば、太宰治のころには合浦海岸にあった校舎が、筒井の田んぼの真ん中に移転して、寺山はその移転したばっかりの校舎で、俳句ばっかり詠んでいたらしい。
 寺山が短歌、詩、戯曲、劇団「天井桟敷」と進んでいくのは東京に出てからなわけだが、その先輩・寺山修司のもとに弟子入りしたおれの幼馴染みが、じつはもうひとりいる。

 リョーの家からもうすこし先にいったところに、エイメイの家があった。エイメイも同じ青森高校に進んだ。だから、リョーとおれとエイメイは、同じ中学から同じ高校に進んだ、数少ない仲間だった。
 毎朝、リョーもエイメイもおれも、小湊という名前の小さな駅から青森まで40分ぐらいかけて汽車で通った。もちろん電車なんかあるはずもなく、真っ黒な黒煙を吹き上げる蒸気機関車に乗ってだ。
 その通学列車のなかにはいろんな噂が流れた。
 リョーは硬派だった。おれは軟派だった。エイメイはよくわからない。でもしばらくして「小湊に天才的な短歌詠みがいる」という噂がながれた。その天才というのが、どうやらエイメイのことらしいというのに気がついたのは、しばらくたってからのことだった。
 おれは舟木一男の歌謡曲なんかが好きな、いたって軟派な男だったから、短歌なんかにはまるで興味がなかった。自分のことは棚にあげて、短歌なんてメメしいぞと、内心思ったりもした。おれはむしろ、通学列車のなかで吉永小百合に似た少女の後を追っかけるのに夢中だった。

 時は流れ、それからたぶん7、8年もたってからだったろうか、青森の片田舎のことなんてすっかり忘れてしまい、東京で大学を卒業したまんまプータロー生活に突入し、明日をもしれない毎日をおくっていたころ、寺山修司の映画「田園に死す」だったか「書を捨てよ町へ出よう」だったかで、おれはスクリーンのなかで、顔をしろ塗りにして主役を演じているエイメイに出会って愕然としたのだった。
 そう、エイメイとは佐々木英明。70年代初頭の文化状況に詳しいひとならば、この名前は忘れもしないだろう。
 走り抜けるスクリーンのなかのエイメイに、おれは一瞬、茫然としてしまったのだったが、さてしかし、あれからさらに30年たって、そのエイメイから、じつは最近になって懐かしい便りをもらった。
 その便りのことについては、また日をあらためて書くことにしたい。

2005.11.14


 中村光夫の『二葉亭四迷伝』を読んでるんだけど、伝染りますね、あの-------で、-------で、---------なのです、って語調が。(トップページに二葉亭の写真があります)
 ところで、読んでいて身に滲みるのが二葉亭のビンボーぶり。前にも書いたけど、ぼくはビンボーな人にとっても興味がある。もちろん自分がビンボーなせいだ。二葉亭は遺言で、自分の子供に丁稚奉公に出るようにいったらしい。家族解散命令か。うーん、あんたはエライ、本当に。おれにはいえない。

 3日、休日をつかって「ふで箱」の原稿を直し、送った。連載のこれで5回目。5日、中野工務店の成瀬さんといっしょに「編集者の家」を訪ねて一年検査をやった。
 なんとまあ早いこと。あっという間に時間が過ぎて、「もう一年と三ヶ月です」って建てぬしさんがいう。この家ではいま物置きをつくる計画が進んでいて、その屋根を草屋根にする予定。なんだかだんだんこの家が小さな村みたいになっていくのが面白い。

2005.11.7


 ようやく鎌倉の家が着工することになった。ここまでこぎつけるのに、いくつ谷を越えたかわからない。29日夜、日暮里の打ち合わせを終えてから横浜の白井組の事務所にいって、地鎮祭の日取りを決めた。やれやれ。
 その前日の28日金曜日は盛岡にいた。例によって国産材を使ったリフォームの話。2年前にも来たんだけど、そのときと同じ会場だった。すぐ近くが城跡の公園で、出番がくるまでの時間、公園をさまよった。まるで現実感がない。おれは透明人間になっちゃったのかもしれん。

2005.11.30


 なんだか世の中から捨てられちゃったみたいに、無音の日々だ。ときどき現場から「ここどうすんでっか?」の電話がかかってくる以外には、無気味なほど淡々と日が過ぎていく。
 音楽会に行くでもなし、お酒を呑みに出かけていくでもなし、お洒落をするわけでも哲学的思考に浸るわけでもなし、まったく不思議な人生ではある。いま考えているのは、はるかむかしに川合健二さんから頂いた、しなびたミカンのこと。
 あれは川合さんの手づくりのミカンだった。小粒で、噛み締めると甘い香りが口中に広がった。川合健二さんがつくった家とあのミカンは、同じ意味を持っていたわけだ。

2005.10.23


 金木犀の香り漂う街、東京。これってなんだか奇妙に悩ましい。
 18の頃、東京三鷹のアパートで暮らしはじめて、花の香りが漂うのに驚いた。青森の片田舎にや、こんな甘ったるい香りなんてなかった。金木犀っていうんだぜ、と教えてくれた友人はいまはもう東京にいない。東京ってのは魔都だと思った。悪魔に騙されないようにしようと思った。
 その頃はまだ吉祥寺の駅は木造の白い小さな建物で、中央線は高架じゃなくて地上を走っていた。駅前にはバラックの市場がスラムのごとく広がっていた。いや、戦後の話じゃないよ、つい40年前、1960年代末の話さ。あれ、なんでこんな話をしてるんだっけ?

 そう、じつは書くことがない。先週はひたすら日暮里と練摩の現場へ通い続けた。その間、多木浩二の「生きられた家」を読んでいた。建築家は家を設計することは出来ても、家のなかに蓄積する経験を設計することは出来ないと書いてあった。そりゃそうなんだが。

 2005.10.15


 日暮里のマンションはいま4階の躯体を工事中。5階建てだから、もうちょっとで躯体が終わり、内装に入る。こっちがさんざん注文をつけるもんで鉄筋屋の人手が足りず、現場監督さんがえらく苦労している。
 本屋さんのほうもかなり工事が進んだ。こっちのほうはなんとか年内にオープンできそう。ど真ん中に置く曲線の本棚の図面をみて大工さんが絶句した。フカノーですぜ!って、まあ、そうおっしゃらずに。
 鎌倉の住宅のほうはといえば、ようやっと工事金額の調整がつきつつある。だがしかし、まだまだ難題が。住宅の仕事は、難題といえばそのほとんどがお金の問題で、ビンボー人のおれには身につまされます、じつに。

 10月7日、早朝の新幹線で京都にむかい、京都駅で乗り換えて草津へ。草津アミカホールなるところで国産材を使ったリフォームの話をした。考えてみたら草津は一昨年も来たんだったっけ。草津の皆さん、代わり映えのしない話で申し訳ない。
 終わってすぐ京都へ戻り、東寺へいった。
 東寺は黒い寺院だ。黒い塔。赤い講堂。黒い金堂。
 金堂は「天竺様の構造法を用いた豪放雄大な気風のみなぎる桃山時代の代表的建築」と解説にある。たしかにいくぶんか東大寺の南大門に似たところもあるけれど、内部のダイナミックさはなかった。
 巨大な暗闇を支える、すっくと立ち上がったアルカイックな架構が見たかったんだが------あの「風の谷のナウシカ」にでてくる腐海みたいな。
 内部です、建築は。うん、つくづくそう思う。
 雨の京都。ひとり東寺の前で、棒みたいに突っ立っていた。ぼんやりと放心して。いつもそうだ、おれは。何をやろうとしてんのか、どこへ向かおうとしてんのか、さっぱりわからん。

 2005.10.10


 先週はコラムをサボってしまった。申し訳ない。
 でもなんとか原稿はできた。ボロ雑巾みたいに自分の体を振り絞って書いた。新建築・住宅特集の11月号はぜひ読んでください。ああ、しかしこれで2年つづいた連載も終わり。嬉しいような、寂しいような。

 10月1日、亡き倉田康男先生のお墓参りをした。むかし(高山建築学校時代)の仲間がぞろぞろ集まってみれば、これがもうみんな、みごとに歳食ってる。ただ倉田先生の奥さまが健在で嬉しかった。
 その奥さまを囲んで、みんなでよく晴れた霊園をゆっくりと歩く。なんだか映画のシーンみたいだね。
 歩いていて、ふと「建築は汚れてる」っていう倉田先生の言葉を思い出した。ハンナ・アーレントみたいなことを言ってたんだなあと、いまごろになって気づいた。
つまりね、市場経済に基ずく「社会性」じゃなくて、名誉に基ずく「公共性」のほうが大事、みたいなことなんだけど。
 倉田先生の言い分はとても旗色が悪かった。いまだってそれは変わっていない。ただ、30年たったらわからないぞって、おれは思った。

2005.10.3


 せっかくこのページを覗いてみていただいたのにゴメン、今日は締めきりに追われてコラムはお休み。まことに申し訳ない。クソー、最終回ぐらいはちゃんと締めきりを守ろうと思ったんだけどなあ。う、う、

 2005.9.25


 行ってきました!幻庵。なにひとつ変わっていなくて、ニコニコ笑って出迎えてくださったエノモトさんご夫妻も、むかしのまんまだった。蝉しぐれ、杉林、緑の木々の間から垣間見える赤い幻庵、おお「遥かなるノートルダム」って、ちょっと違うか。でも、おれにとっては、あれはやっぱり遥かなるノートルダムなのですよ。
 ちょっとだけ変わっていたのは前庭を苔が埋めて尽くしていたこと。ふかふかの絨毯みたいな苔がみごとだった。しばしその苔の絨毯のうえにたって幻庵を見上げ、時を忘れた。我に帰って思った。こりゃ原稿なんか書けそうにないなあ。ただいたずらに30年間過ごしてしまったのか、おれは。うーん。

 でもね、30年もたてばやっぱり少しは事情も変わる。それが証拠に、今回は岡崎と浜松を股にかける建築家・寺川千佳子さんが駆け付けてくださっったんだもんね。寺川さんとは3年前に知り合った。(前にこのコラムで書いた「名古屋大遅刻事件」を覚えておいでだろうか?)そのときエノモトさんご夫妻をあらためて紹介してくださったのにはビックリ。建築家・石山修武を見い出しただけじゃなくて、エノモト大人は豊橋近辺の建築家たちの間にも人脈を広めているらしい。
 で、幻庵のなかで寺川さんの特製冷麺をいただきながら、石山修武発見のころのお話をいろいろとうかがった。エノモトさんというのは「戦後はじめて出現した極め付けのクライアント」だったのだというのがよくわかった。川合健二に始まり、青年建築家石山修武の登場してくるここらのいきさつは小説になりそうな材料満載で、いつかはこれを書かせてもらおうなどと考えながら、しかしその川合自邸を見て帰るにはもう出発しなくては。さようなら幻庵、さようならノートルダム。

 寺川さんに教えていただいた川合自邸の住所をナビに打ち込んで幻庵を出発したのが2時過ぎ。川合自邸には3時30分についた。ここでもまた丘のうえに赤錆びた物体がチラリと見えるその出現のしかたが凄い。石井和紘は川合健二のことを「闇一族」の首領(ドン)だと書いているけれど、まさにその闇の首領の家たるにふさわしいぞ、これは。
 さいわい花子婦人が在宅で、「どうぞなかを見ていって」と気さくに案内してくださった。こっちのほうはおれは20年ぶりなんだけれど、これまたなんにも変わっていない。北側の蜂の巣状の窓は作り替えたのだそうだが、前とまったく同じかたちに同じ色(錆び止めの赤)だった。花子婦人に案内されてなかにはいれば先客がいて、なんとこのかたは「治部坂キャビン」のセルフビルダー。いやはや今日は会う人がみんなコルゲート一族だよ。
 めくらめく一日。体も頭もすっかりコルゲ−ト化して、さて一目散に東京にもどれば、しかし原稿のことが重くのしかかり、さらにまた「明日はオゾンで植久さんと一緒に家づくりの話しをしなくちゃならんのだけどなあ」などと、おれの心は散々に乱れてる。

 と、ここで日が変わり、今日は19日、さっきまで西新宿のパークタワーにいて、「家づくり実践講座」というのをやってきた。住宅建築誌編集長の植久さんが上手に話しを引き出してくれて2時間があっという間に過ぎた。嬉しかったのは聞きに来てくださった方のなかに「高山建築学校伝説」を読んだと言う方がいて(しかも2名も)、いまの話しとあの学校の話しはどうつながるんです?なる質問をしてくれたこと。
 そりゃね、おおいに関係があるんですよ。というか、幻庵に憧れる気持ちと、山の中の放浪学校と、おれのつくる木造住宅はね、みーんなつながってます。だってほら、みーんな「少年の日の夢」みたいなものじゃないっすか。

2005.9.19


 在来工法ファイル」の最終回に「幻庵」のことを書くことになって、9日石山修武さんのところへ挨拶にいった。久しぶりで石山研修室の扉を開けたら、もう新建築の佐藤さんはとっくに来ていて、なにやら昼ご飯まで一緒に食べたらしい。そりゃないよ、でも、考えてみたら佐藤さんはずっと石山さんの担当だったんだよね。
 幻庵当時のことをいろいろお聞きして、なんだか懐かしかった。むかし石山さんを乗せて「幻庵」まで、東名道を突っ走ったことがあったっけ。着いたら真っ暗で、川を渡る丸太橋から落っこちそうになった。あのときはたしか長谷川逸子さんも一緒だったような気がする。
 で、18日に幻庵を訪ねます。エノモトさんにはすでにご了解いただきました。そう報告したら、ニヤっと笑って「おまえいくつになったんだよ」
 えーえ、歳をとりましたよ。お互いさまです。時は過ぎ、川は流れ、枯れ葉だって散ってますぜ。どうもいかん、石山さんに会うと悪ガキ時代のことを思い出しちゃう。

2005.9.12


 今日は月曜日。事務所に来るなり、あわててこのコラムの更新にとりかかった。いつもなら土日に書いておくんだけれど、今回は鎌倉の住宅の見積もりオーバー対策に追われて、それどころじゃなかった。なにしろオーバー額が並みじゃないの。やっぱり住宅ってお金がかかるんだね(いまさらだけど)。
 風に吹かれるがごとき頼りない毎日なんだけど、そういえば先週、オゾンの住宅建築30周年記念のパーテイーにいって、おもいがけず懐かしいひとにたくさん再会した。四国の六車棟梁、つくばの津島さん、森林文化アカデミーの最初の卒業生、あゆみギャラリーの鈴木さん、おっと設計者の川口通正さんもいたけど、彼はあいかわらずダンデイーでミッチー(及川ミチヒロ)そっくりの王子みたいな風貌であったよ。まったくうらやましい。
 その王子川口と話しているところに、突然オゾンの安藤さんが現われてインタビューを受けてしまった。すきをみて彼女がいう。あなたオゾンの登録建築家を更新してないでしょう。いやいや今年ちゃんと登録し直しましたと必死で弁解したのだったけれど、よかったちゃんと再登録しておいて。なにしろオゾンには、これまで展覧会をやらせてもらったりなんだりで、恩があるのです。

2005.9.5