|
2002年がはや、暮れようとしています。ぼくの建築的青春も、いっしょに暮れていくのかもしれません。みなさん、お元気ですか?
いろんなことが同時に起きました。パリの5月広場で老女が転び、北朝鮮の村々には雪が降り積もって、駒込のカトマンズのチャイに茶柱が立ちました。みなさん、お変わりありませんか?
大阪市立大学の中谷レーニンはいまんとこ元気で、「趙さんスルドイ!」とかワメイテます。住宅建築の植林さんは輪転機に追いまくられて消耗してます。うちの娘はアルバイトでメリーのチョコレートを溶かしています。八王子のヒノキの診療所では、ひそやかにひとのココロとカラダの悩みが語られています。みなさん、ひと恋しくありませんか?
中学の同級生たちはイマイチ元気がありません。不景気だからねえ。ぼくとおんなじで、枯れ葉のごとく風に吹かれて、ああ、みなさん、どうお過ごしでしょうか?
哲学者木田元が西船橋の喫茶店でコーヒーを啜りつつ言いました。人間の存在とはつまり時間のコトなのだと。時間はひとを食う。食い散らかす。ぼくの額にも深ーいシワが刻まれました。暮れゆく年の瀬に、これをお読みのすべてのひとに以下の歌を捧げます。
ワカンナイ
雨にも風にも負けないでね
暑さや寒さに勝ちつづけて
一日、すこしのパンとミルクだけで
カヤブキ屋根まで届く
電波を受けながら暮らせるかい?
南に貧しい子供が居る
東に病気の大人が泣く
今すぐそこまで行って夢を与え
未来の事ならなにも
心配するなと言えそうかい?
君の言葉は誰にもワカンナイ
君の静かな願いもワカンナイ
望むかたちが決まればつまんない
君の時代が今ではワカンナイ
*新年より全ての方への年賀状を取り止めることにいたしました。
申し訳ありません。お気を悪くなさいませんように。新年の御挨拶は
このホームページのコラムをもって代えさせていただきます。
2002.12.27
夜更けのテレビを見ていると、ときに衝撃的なシーンにでくわす。「いまどきアリエナクネー?」と叫んでいるのは、ガングロ白口紅の山姥ギャル。絶滅しかかっている種族の最後の生き残り少女だ。もちろんアリエネーのは彼女のメークである。これは自己批評なのだ。ジロジロ見んナー!とカメラに向かって明るくはしゃいでいる。あんたはエライ。
三澤康彦、文子さんの展覧会にでかけた。東京駅前に新しくできたギャラリーで、18日間に400人がつめかけたと聞いてびっくり。ぼくが行ったのは最終日だったんだが、この日もすごい人だかりだった。緩い勾配の屋根、木の壁に沿って光といっしょにのび広がっていく内部、すごいね。昔、小能林宏城という批評家がいて、谷口吉郎のことを「工匠の末裔」と評したことがあるんだが、ぼくもこの場を借りて三澤夫妻に「現代の工匠たち」という評言を捧げたい。
工匠というと精密な職人仕事の信奉者みたいに聞こえるけど、そうじゃなくてさ、技術の成立基盤の問い直しのコトなのね。大工技術の継承者は大工のなかにはいない。むしろ野に住む設計者のなかこそ、その継承者はいる。だって、いまの木造建築というのは昭和の時代に始まった新技術なのであって、いま僕らの時代にようやっとそれが表現としてかたちをなそうとしてるんだからね。
三澤さんたちにはぜひ木造住宅界のハマアユになって欲しい。でもそうしたらぼくの役どころは、かの深夜のテレビで叫ぶガングロ自己批判少女かなあ。
さてしかし、木造建築界のガングロ少女だってガンバルのだ。三澤さんたちの展覧会から事務所に戻って、深夜までかかって図面をまとめ、翌早朝、工事のすすむ宇都宮へ。巨大な木造のフレームが立ち上がっていたぜ。二階建てなのに高さが9メートルもあんだよコレガ。最大スパン8メートル。柱のサイズが、でかいのは21センチもある。
ギリシャ神殿みたいに柱に溝を彫りましょうって、ウケ狙いで言ったらマジに彫ってた。ドヒャー、こりゃスゲー。呆然として事務所にたどり着いたら、茅ヶ崎の家の現場から戻ったスタッフのタカハシとはち合わせ。完了検査、無事に終わりましただって。ふう、よかった。というわけで、まだ外構の塀ができてないんだけど、今週は完成まじかの茅ヶ崎の家をトップページで見ていただきましょうか。この仕事では、「木の家」の原形みたいなのが実現できたんじゃないかと思うんだが。
2002.12.22
8日日曜日、南足柄の「小さな落水荘」の相談者を事務所に迎えて案の説明。予算が厳しいのでどうなるかはまだ不明。案自体には興味をもっていただけたようだ。自信作ではあるのだが、なにしろ基礎にお金がかかるのだ。でも、実現したらきっと、木でできたグライダーみたいになるぞ。
9日は大雪の宇都宮。レストランの基礎が出来上がっていた。でかいなあ。
10日、朝6時発の「のぞみ」で岐阜の森林アカデミーへ向かう。名古屋で乗り換えて岐阜へ行き、さらにバスに揺られて一時間、ようやく美濃市へたどりつく。そのまま授業を始めてその日はコテージに泊まる。去年は住宅建築の植林さんと一緒だったのだが今年は一人でちょっとさびしいね。講議のテーマは「木造モダニズム論」。広瀬鎌二のSH-1を読みといて、それを木造に翻訳しょうというもの。模型をつくってみたら、やはりすごい。まるでテントを針金で補強したみたいだ。ピーンと表面張力が張り詰めた建物であることがよく分かる。
翌11日は演習課題で、さていよいよ木造への翻訳作業。6人の学生が全員違う案をだした。これだから建築は面白い。正解が一つということがあり得ない世界なんだよね、建築は。しかし、時間が足りず、完全な案にはたどり着けなかった。まあいっか。正解を出すのが目的の授業じゃないからね。午後3時に授業を終えて、そのままバス停まで学生の車で送ってもらい、バスに飛び乗って来た道を逆戻り。岐阜でコーヒーを飲んだら死ぬほどうまかった。フー。
12日はひと休みできるかと思ったらあまかった。事務所にきたら、宇都宮の屋根工事のための図面を早く送れと矢の催促。瓦を割り付けてファックスで図面を送る。考えてみたら屋根に瓦を使うのは始めてだあ。瓦を割り付けてるスタッフのクマちゃんの横に新顔がひとりいる。早稲田の芸術学校の学生で、ぼくらの仕事に興味があるから事務所を見学させて、といってやってきた。せっかくだから「小さな落水荘」の模型をつくってもらおうとしたんだが、これはまだどうなるか分からないから、「人形の家」の精密な模型をつくってもらうことにした。この学生は住宅建築6月号の「クラフツマンシップの現在」を読んでくれたらしい。
13日、スタッフのタカハシに茅ヶ崎と人形の家の現場に行ってもらい、ぼくはリフォームの調査で稲毛へ向かう。いつもぼくのこのコラムを読んでくださっている若い設計者が稲毛にいて、彼が調査をお膳立てしてくれた。稲毛の駅前で野口さんというその若い設計者と合流。向かったのが白門建設のモデルハウス。国産材を使った家づくりに取り組んでいる会社だという。
この会社の社長がまたすごかった。エネルギーの固まりだね。しかもものすごい勉強家で、家から始まる環境問題にマジで取り組んでいる。国産材の世界はいま、理論よりも実践が重要な時代にはいっているんだと思う。実践して、しかもそれでちゃんとクッテるひとにはとても頭があがらない。まいった。
その社長に連れられて国産材をつかったリフォームの現場へ。一階はヒノキの床で二階はスギ。なんと台形集成材まで使ってるではないの。しかも床下には竹炭が敷き詰めてある。ここまで来てるのかあ。こりゃ、ぼくら設計者もうかうかしてられないね。
というわけで、ぼくの一週間は風のごとく過ぎていった。桜散る啄木の春も、日照りの続く賢治の夏も、木立のなかをバイクで疾走する揚水の秋も、桃水への思いを断ち切ろうとひとり降りしきるみぞれをみつめる一葉の冬も、ぼくの頭のなかではみんなひとつの方向に向かって、風に吹かれてなびいている。
2002.12.14
八王子の建てぬしさんからなんとワインをいただいてしまった。逆だよね。ホントはこちらからお送りしなくちゃならんのだけど-----恐縮しきり。ありがとうございました。今年できたばかりの木造の住宅兼診療所。少しづつ来院する方が増えるといいんだが。ヒノキに包まれた診療所というのは世界でもここだけだと思う。スローライフを生きる人たちのためのスローライフな診療所、医療のことならなんでも相談にのってもらえます。詳細を知りたい方はぜひメールをください。
さて、八王子のもう一軒の建てぬしさんからは忘年会のお誘い。これもうれしい。久しぶりにお邪魔して思いっきり飲むぞう。この家はまことにおめでたいことに、家ができたとたんに赤ちゃんが誕生した。名前は隼人。家と隼人クンは同い年というわけだ。木の家で育つ子供ってもしかしたらいまどき珍しいかも。この家で使われてるヒノキみたいに元気に育ってね。
もういっこ建てぬしさんがらみの情報。
神奈川県の南足柄にも二軒台形集成材の家がたっていて、500メートルも離れていないんだが、これが三軒になりそうだ。近くに土地を買った方からの相談があって、いま計画が始まったばかり。これはもうドキドキもので、三週間悩み狂ったはてに、ついにいけそうな案ができた。
今週のトップページは臨時ニュースでこの家の模型をみていただくことにしよう。ぼくの頭のなかにあるイメージは「小さな落水荘」。もちろんかのフランク・ロイド・ライト大先生のもじりですけどね。でも、落水荘を木造でつくったらこうなるのです。どうだあ、おそれいったかあ!----でも、明日やってくる建てぬしが、こんなのダメじゃん、なんていったらどうしよう?
ああ、ぼくらの仕事はいつもいつも建てぬし次第なのですよ。センセイなんて、お願いだから呼ばないで。
2002.12.07
雑誌「室内」が送られてきた。宮前区のG4キューブ(横山さんの家)に室内の鈴木さんが取材に来たのが11月の3日だったから、なんと三週間で本になってる。すごい早業だね。「建築家が設計した家に住んで」というシリーズの59回目。記事も写真もよかった。生活のためのタフな容れ物っていう感じがとってもよく出てる。八王子の家とこの横山さんの家は我ながら傑作だと思う。デザインがいいんじゃなくて住み手がいいんだよね。もう平伏して感謝しちゃう。
その翌日、今度は「こんな家に住みたい」7号が送られてきた。小田原の芝田さんの連載もすでに7回目になる。そのすぐ後ろのぼくの連載は二回目。題して「職人たちの梁山泊」どちらも一読の価値ありですのでどうぞ買ってくださいな。この号には葛西潔さんも登場してる。じつは葛西さんの自宅には昔、娘といっしょにお邪魔したことがあって、美人の奥さまの手料理をごちそうになった。子供達が家中を駆け巡ってでっかい体育館みたいな家だった。ひとのつくるものにはあんまり興味がないんだが、葛西さんのだけは別。じつにいい仕事をしている。ビンボーにして高貴なる住宅という意味ではぼくのと葛西さんのとはとてもよく似ていると思うんだけどね。
2002.11.30
枯れ葉が散りますね、はらはらと。来年の春にはなんとかしてマルセイユにいって、そこから地中海を渡ってアルジェまで行きたいと思っているんだがどうなることやら。アルジェにはかの「200コラム」がある。フェルナン・プイヨンの、おそらく絶頂期の仕事。これだけは見ておきたい。
この頃は毎日の電車のなかで辞書片手にプイヨンの回想録に読み浸ってる。建築という仕事の悲しみと喜び。プイヨンに比べたらコルビジェなんかアマチュアだよ。だって、絶対に傷つかないとこに身を置いてたんだから。プイヨンは設計と現場を分けなかった。現場の不透明なとこを自分で抱え込んだ。
コルビュジェはパリの未来図を書いたがそれは絵のままに終わった。プイヨンは絵を書かず、1万5千戸の住居をパリの近郊に現実のものとしてつくった。ムードン、バッファロー、パンタン。だがそれが命取りになってプイヨンは牢獄に入った。プイヨンの周りにいて、建築を金もうけの手段としか考えなかったやつらにハメられたのだ。読むたびに腹がたってならない。
むろんプイヨンにだって罪はあった。彼の貴族趣味。古美術品の収集。プイヨンはなんと城まで買っている。建築が、とくに集合住宅が、戦後のその時期には莫大な金を生む金の卵だということをハイエナたちに教えてしまった。
プイヨンの栄光と悲惨。彼はまるで日本の中世を生きた重源のようだ。怪し気なオルガナイザー。建築構法への精通。メガロマニアックな構想力。どれもみな近代がなくしてしまった、無限にはみだしていく力ばかりだ。
2002.11.24
今日は金曜日。無気味なほど静かだ。今週は月曜日からずうっと事務所に閉じこもっていた。どうも精神状態がよくない。偉大なる敗残者たちのことが頭を去らない。フェルナン・プイヨン、倉田康男、ジャン・プルーヴェ、みな自分の人生を潰してしまうほどの壮大な負けっぷりをくらった。
彼らはみな、しゃれたデザイナーなんかじゃなかった。ものをつくる現場に全身を沈めて、お金の苦労はもちろんのこと、厄介事をみんな自分で背負い込んだ。中世では重源やシトーのサン・ベルナール、近世ではペレなんかがそうだったが、しかし、この人たちがそれなりの人生をまっとうしたのに比べて、近代をそんなふうに生きようとした者たちの、あの悲惨ぶりはどうしたことか。
2002.11.15
今週末はいよいよ中学の同窓会だぜーい。集団就職列車に乗っていった仲間たちと、なんと江ノ島1泊旅行だあ。それでこのページの更新分をいま書いておかなくちゃならんわけだが----ウーム。なにを書いたらいいやら。
と、頭をめぐらしていたら電話。モシモシこちらテレビチャンピオンです。うわあ、また来た!
もうつき合ってらんないよ。最近のテレビはホントおかしい。盲滅法だもんね。この前の劇的ビフォーアフターもそう。誇りもポリシーもなんにもないナイ。いいかげんにしてくれえええ。
そういえば「室内」の取材の時に、編集者の鈴木里子さんが言ってなあ、この手の電話は雑誌社にもよくかかってくるって。いまや住宅の設計者には「芸」が要求されてるわけね。大道芸とおんなじで、そのことにはちっとも抵抗感はないんだけど、それにしても盲滅法というのはどうもね、ちゃんとこっちの仕事(芸、かな?)を把握してからにしてほしい。
ブルーだあ、って書いたら励ましのメールをいくつかいただいてしまった。丸山純夫さんありがとう。平野さんありがとう。しかしどうもナンだね、すこしはちゃんと建築のことも書かなくちゃ、読んでくださる皆様に申し訳ないかな。
というわけでいつかフェルナン・プイヨンのことを紹介したいと思ってる。1912年生まれの悲劇の建築家。フランスで住宅建築公団のスキャンダルに巻き込まれて4年間未決拘留され、牢獄生活をおくった。獄中で書いたのが「粗い石」。これは1972年に翻訳されて、最近また復刻された。日本ではその本の著者としてしか知られていないが、じつはすごい建築家なのです。なんと近代建築に真っ向からさからって、積石造の建築をつくったのだ。代表作はたぶんアルジェの「200コラム」。これはじつに全長500メートルの集合住宅で、彼の仕事とスキャンダルとそれらにまつわる全てのことを、1968年に彼は回想録に書いている。でもね、翻訳はまだないのさ。フランスでは文庫本(リーブル・ドウ・ポーシュ)になっているんだけどね。
1976年だからもう26年も前に、その文庫本を偶然のことから買って、ちょっとづつ読んでいたのがようやく全貌が見えてきた。中世の大棟梁の血筋を、近代においてなおも保ちつづけたこの人物のことは、ぜひみなさんに知ってほしいと思う。コンフォルトの内田編集長、これを書くページをいただけませんか?
ちなみに、文庫本の扉に記された紹介文を私の拙訳でどうぞ。
ある建築家の回想(扉 紹介文)
1912年に生まれ、フラマンとプロヴァンスの二つの血流を継ぐフェルナン・プイヨンは、パリとマルセイユでの勉学の後に、22才にして最初の建物を建てる。
つづいて、ウジェーヌ・ボードアンに学び、オーギュスト・ペレの助手をつとめる。30年間にわたる職業生活のなかで彼は、ヨーロッパに、アジアに、アフリカに、12の町と1万5千の住居に匹敵する数のものを建てた。
1961年、C.N.L.(住宅建築公団)事件で逮捕され、4年以上にわたって幽閉されたのちに逃亡。審理に出廷し、改めて1965年まで牢獄に入る。
この試練を辛くものりこえ、1966年に「粗い石」を出版した後、若きアルジェリアが彼を迎え入れる。6年のうちに彼は40以上の観光者用団地を実施し、サハラに無数の工事場を出現させることになる。
その間、1968年には「ある建築家の回想」を出版、自身の職業生活とプイヨン事件について語った。
1972年正義は彼に帰された。フランス共和国大統領令による特赦が行われたのである。
建築に関する多数の著作を持つ者としてフェルナン・プイヨンは現在、建築辞典の編纂に携わっている。
****
フィエソールの隠れ家の1室で逃亡者は語る。彼は世界中の警察からのお尋ね者であり、その名をフェルナン・プイヨンという。
彼の成功はセンセーショナルなものだった。フランスを、アルジェを、イランを、彼の仕事場が覆い尽くした。そして最後に、C.N.L.が----暗澹たる「事件」が----彼を地面にたたき落とした。
世論を導いた報道に対して、彼は自らの真理を、そして全てを遠慮なしに語ろうとした。マルセイユでのデビュー、華やかにキャリアを重ねていった時期、彼が立ち向かっていった男たち、内面の孤独をもたらした数々の成功、彼を深くえぐった数々の侮蔑----。
物語は牢獄の中でもつづく。それは「おおがかりな審理」の記録であり、そこにひとは虚飾に覆われたものを見い出す。
今日、かの建設者は最大の冒険を生きている。ヨーロッパの共同市場に匹敵する巨大な国土から1800日で40以上の団地が出現しているのだ。同時に彼は世界で最も革命的な建設に取り組んでいるところだ。しかしそれは、フェルナン・プイヨンが生き続けそして書き続けている、もう一つの別の物語である。
2002.11.8
時は流れ、日は過ぎ行く。11月1日は手塚さんご夫妻と池田昌弘さんのJIA新人賞の受賞パーテイーがあったんだが行けなかった。
その日は宇都宮にいた。由比さんゴメン。2日は「こんな家に住みたい」の連載原稿二回目を書いていたんだが書けなかった。書きあぐねた果てに数行で放り出しちゃった。編集長の平野さん、ゴメン。
3日は「室内」の取材。「建築家の設計した家に住んで」というページで宮前区のG-4キューブをやることに。行くたんびに居心地のいい家になってる。たて主が自分で手を加えてるのが素晴らしい。今月末発売の号だそうで、間に合うのかなあ。
4日はこんな家の原稿に再挑戦。なんとか書いた。ああ、こうやって文字にしてみると、なにやらずいぶん働いてるみたいに聞こえるけれど、実はのんべんだらり、あまりのスローペースに我ながらあきれてる。
2002.11.4
朝、目黒の駅に降り立って、まっすぐに山手線に乗って駒込の事務所へ向かうかといえばさにあらず。怠惰なぼくの足はヴェローチェに向かってぼくの体をひっぱっていく。一杯のエスプレッソ。世の中にこんなにウマイものがあろうか!ほとんどこの一杯のためだけにぼくは生きているのかもしれないね。
その、この世のものとは思えぬぐらいのエスプレッソを味わいながら至福の時を過ごすのかといえば、これまたさにあらず、心は散々にみだれ夢は枯れ野を駆け巡る。ああ、一度お見せしたいものだね、中身を。
ところで目黒には最近アトレができて、その2階になんとタリーズがオープンした。アメリカに住んでたぼくの姪っ子によれば、タリーズのエスプレッソは「泥みたい」なのだそうだが、いやいやその泥の味も捨て難いぜ。タバコを吸わせないスタバにくらべりゃ天国さ。
2002.10.25
KEMURIというミュージシャングループをご存知だろうか?アメリカで注目されたのが発端でブレークし、いまは日本で音楽活動を展開している男性6人のグループだ。来週にはベストアルバム発売、11月からコンサートツアーが始まるというからスゴイ。ちょうどいまが、日本の音楽シーンに華々しく躍り出ようとしている境目の時期なんだろうと思う。いや、もうすでに躍り出ていて、これから爆発的な人気を得ようとしている時期というべきか。彼らの音楽タイプはSKA
PUNKUと呼ばれるらしい。ぼくには意味がわからんのだけれど、たぶんロックを過激に進化させたものなのかな。
なんでこんなことを書いているのかというと、じつはその当人がぼくの目の前に現れた。6人を率いるメインヴォーカリストのITOさんが、昨日ぼくの事務所で目の前に座ってた。奥さんといっしょに。
いやあ、過激なミュージシャンといえどもやはり住むところは要るんだよね。ITOさんが最初にぼくの事務所に現れたのは一年前のことで、その時にはなにやら音楽をやってますというばかりで、こっちも深く尋ねなかったからゼンゼン知らなかった。その後、住まいのことでいろんな相談を受けているうちに、ぼくの娘が気がついて叫んだね、おとうちゃん、それKEMURIだよう!
ITOさんの住まいは結局、改修だけにしようということになって、ぼくの役目はアドヴァイスだけだったんだが、その後の経過報告ということで昨日わざわざ事務所を訪ねてくださったというわけ。ぼくはミーハーだからさっそくサインをもらってしまった。そのサインには添え書きがしてある。Positive
mental attitude(肯定的な精神姿勢)ヒェー、そうだよね、そうでなくちゃ。こりゃ落ち込んでるぼくへの叱咤激励かな。
2002.10.18
とっても、とってもブルーです。作者鬱状態のため、今回は休載。もしもこれが月刊誌ならページが真っ白だあ。
2002.10.8
ブルーな気持ちに鞭うって、やっぱりなんか書いておこうと思い直した。
いつだったか、木枯し紋次郎の旅烏すがたに自分を重ね見ちゃうって書いたら、まあそうグチをいいなさんなとばかり本を送っていただいたことがあった。「帰ってきた紋次郎」シリーズの1冊で、送ってくれたのはなんと、この本の編集を担当したという新潮社の現役社員の方だった。その節はたいへんありがとうございました。でも、思いがけない人がぼくのホームページを読んでるもんだなあ。
笹沢左保著「木枯し紋次郎」シリーズは掛け値なしの傑作だと思う。日本文学の、ほとんど金字塔といっていいんじゃないか。鴎外漱石なにするものぞ、龍も春樹もメじゃない。荒唐無稽の底の底に、ほんとのリアルさが顔を覗かせててゾーっとする。飢えと疲労と惰性の底の底に、さらにもう一層、分厚い層が広がっていることを、読むたんびに思い知らされてしまう。
2002.10.10
9月30日、外苑前で降りて神宮前二町目のスタジオへ。住宅建築の中村さんと波多野さんが待っていて、「鬼に金棒」という、ちょっと飛んでる名前の接合金物の撮影に立ち会った。颯爽とした女性カメラマンが奥から現れてテキパキとセッチィング。ヒェーかっこいい。世の中にや才色兼備ちゅうのを絵に描いたようなひとがいるもんだ。
ぼくの役目は金物の組み立て方のアドヴァイスだから、あんまりすることもなくてボンヤリしてたら、中村さんが「コレ、今日印刷所から送られてきたばっかりです」と住宅建築10月号を手渡してくれた。ああついに出たか、苦労の果ての石山修武特集。もうゲラでなんども見たのだけれど、改めてページを繰ればさらにジーンとくるね。
この特集ではメインの写真をモノクロにしてるんだが、このモノクロがただ者じゃない。なんと4色を重ねたモノクロなのだ。だから、写真に不思議な奥行きが生まれてる。「エル・クロッキー」みたいじゃん。スゴイ!みなさん、この号は買おうね。ぼくも明日は本屋を回って何冊か買っちゃうぞ。あっちの本屋で1冊、こっちの本屋で1冊って具合に。でも、ひたすら恐いのは石山御大の反応。インタビューのとこに、ぼくの写真が石山さんのと並んでて、オマエいつからそんなにエラクなったんだあって叱られちゃうかなあ。----ああ、小心者の悩みは尽きない。
翌10月1日、災難続きというか才媛続きというか、今度はぼくの事務所に颯爽たる女性インタビュアーが現れた。昨日の女性カメラマンに負けず劣らずカッコイイ。東大の松村秀一研究室に在室する若手研究者で、町場で這いずり回ってるぼくみたいな設計者の職能を研究してるんだって。あなたの社会的な存在意義は何か?なんちゃって、そんなことぼくにだって分かるわけないじゃん。
かの才媛によれば、建築家が金持ちの住宅ばかりじゃなく庶民の住宅を設計するようになった始まりは19世紀末のイギリスなんだって。マッキントッシュみたいに?って間の手を入れたら冷たく睨まれて、スラスラと10人ばかりぼくの知らない建築家の名前を挙げた。分かりましたよ、降参ですよ、まったく才媛にはかなわん。
でもなにしろカッコよかった。樋口一葉もこうだったかと思った。ぼくは勉強ができなかったから町場の設計者になっちまったが、できるものなら研究者になりたかった。いや、遅くはないかも。松村秀一さんのとこに押し掛けていって、研究生にしてもらおっかな----。
2002.10.3
酒場の同窓会に続いて、中学の同窓会の連絡がきた。こっちは絶対行かなきゃ。
思い起こせば40年前、ぼくは青森県の小湊という海辺の町で暮らしていた。その町の中学校に、北風ふき抜く寒い朝も心一つで暖かくなるのだと自分に言い聞かせながら、元気に腕を振って、ぼくは通っていたのだった。
その中学校は丘の上にあった。ぼくの家からは一度坂をくだって、それから田んぼの中の1本道がのぼり坂になってずうっと学校まで続いていた。吹雪きの日には舞い上がる雪で道が見えなくなった。用務員さんが道筋に沿ってたてた赤い旗を目印に、一列になってぼくらは歩いた。列の後ろから見ると、小さな雪だるまが行進していくみたいだった。ボーっとした薄明かりの向こうに、赤い旗がかすんで見えた。一歩道を踏み外せば、田んぼの上に積もった雪のなかに胸まで沈んだ。真っ白な、真っ白な世界だった。
昭和38年にぼくらは中学を卒業した。同窓会の名前はだから38会っていう。ベビ−ブ−ム世代だから一学年が7クラスもあって、進学組3クラス、就職組4クラスだった。間違えないでほしいんだが、これは中学のはなしなのであって、だから、中学校を出て就職する仲間が、なんと4クラス200名もいたってことなんだ。
就職のために東京へ向かう仲間たちは、専用に仕立てられた集団就職列車にのって、町を発っていった。プラットフォームではブラスバンドが螢の光を演奏し、ファンファーレを鳴らした。北国の小さな町にとっては、それは一年で最大の行事だった。初恋のひとが列車の窓から顔をだすのを、ぼくは物影からジーっと待っていたんだが----アレ、どうもいかん、またもやセンチになってしまった。これじゃ、泣きのウミヒコっていわれちゃうぞ。
いま38会には毎年25人ほどの仲間が集まる。なかでも元気がいいのはこの時集団就職列車に乗っていった仲間たちだ。ぼくも人並みに年をとったから、彼らが浴びた苦労がどんなものだったか、想像がつく。だから、とてもじゃないが頭があがらない。彼らにだけはなんとしても会いつづけたい。
むかし、男が男以外のなにものでもなく、女が女以外のなにものでもない時代があった。中学を卒業したばっかりの年令で、果敢にも社会に飛び出していった仲間たちからは、そんな大人の臭いがかすかにした。そのころ、戦後民主主義はまだ光り輝く理念だったし、汚れなくぼくらの行動を律してもいた。やまびこ学校も青い山脈も、清く正しく美しい気品をもって社会に根付いていた。悪人でさえ気品があった。日本の戦後20年間は、明治人の気品が隔世遺伝のごとく現れてかたちをもった最後の時代だった。
2002.9.26
モシモシこちらテレビ朝日の「劇的ビフォーアフター」ですが----、ええ、あの視聴者の願いをみごとにかなえてみせるリフォームの番組のですねえ、じつはその番組に出演してくださる匠を探しておりまして、はい、私どもは匠とお呼びしてるんですが、その匠としてセンセイひとついかがでしょうか----。
ムムム、なんじゃこれは!そういえば見たことがあるぞその番組は。たしか友人の瀬野さんが出てたっけ。それにしてもいったいナンデぼくのところへ???----たかなる胸をおさえつつぼくは言った。
どうもその、わたしは顔に自信がないもんで、あのお、そのお、自信がないんですよお----。言ったとたん、ああ、そうですか、と電話はガチャンと切れた。なんじゃこれは!もう少し余韻というものがあってもいいんじゃないの、余韻というものが----。
2002.9.25
現実というのはじつにどうも辛い。年をとるごとにジワーっと辛さが身に滲みてくる。5年ほど前、その辛さから逃げるために、新宿の酒場に通ったことがある。「川」という店で、そこに行けばたちまち1970年代にタイムスリップできた。
バーボンと、たちこめるタバコの煙りと歌謡曲。カラオケの機械なんてものは置いてなかったから、生のギターをバックにしてみんな歌い狂った。太田裕美の汚れなき名曲「木綿のハンカチーフ」、ザ・リガニーズ「白いブランコ」、財津和夫「サボテンの花」。調子にのると店のママが「むかし、人は鳥だったのかも知れないね----」と中島みゆきを歌い、あれはいったいどういうわけだったんだろうか、ぼくはママの歌声に金縛りにあったようになって身動きできず、見たこともない青い空に向かって昇天しちまったのだった。ああ、この空を飛べたら-----。
いやはや、なんともセンチなはなしで申し訳ない。ぼくには青春らしい青春というのがなくて、この頃が遅咲きの春みたいなものだったから、ついひとり泣いてしまった。つまりですねえ、失敗しちゃった青春を20年後にもう一回やり直そうとしたんだね。しかしまあ、そんなことは神サマが許すはずがない。店のマスターが急死し、ママも後を追うように亡くなっちゃって、この店は三年前につぶれた。以来、酒を飲みにいくことをしなくなった。
この店に集まっていたなんとも気のいい連中からは、いまでも時々同窓会の連絡がはいる。酒場の同窓会なんてウソみたいな話だけれど現実だ。でも、いまはもう魔法が解けたみたいで、いまいち気乗りがしないんだなあ、コレが。
2002.9.23
14日土曜日、木場の森林管理局なるところで台形集成材をつかった家づくりの話をした。緑の列島ネットワークというNPO組織が主宰するセミナーでMOKスクール東京というのがあって、そこの一連の講議の第一回目。100人ぐらいの聴衆がいてびっくりした。木に対する関心はプロ、アマとも、すごいものがあるなあと実感した。15日は宇都宮、16日は久しぶりに休み。
2002.9.17
心配してたらほんとにボツになっちゃった。イームズの原稿のこと。もっと、自分の視点を入れて、だって。ヒエー、どうしよう。石山修武論の直しと重なっちゃうぞ。ウーム。トホホだけれど、しかしまあこれも、もの書き志願のヘンな設計者たるぼくが、好きで背負い込んだことだもんね。気合いを入れ直して猛スピードで書いた。いきおい余って、タイトルまで書き直しちゃった。今度のは「既製品の時代のクラフツマン」。さあ、これでどうだあ!二枚でどうだあ!おっと、後のはたぶんだれにも通じないね。むかしイカ天(イカすバンド天国)ってのがあって、そこで一世を風靡したキメゼリフだったんだけどさ。
ああしかし、ぼくにはやっぱりもの書きの才能なんてないなあ。読むにたえるものを書くのは並み大抵のことにあらず。やっぱ、アマとプロの差が歴然とでるわい。自分が情けない、ウウウ----もう帰って寝る。オヤスミ。
2002.9.3
ありゃまあ、なんたること、こんどは住宅建築の植林さんから電話で、ぼくの書いた石山論のタイトル「だれのとも似ていない近代」が分かりにくいとのこと。ふたたびウーム。でもたしかにね、あなたは正しいよ。じつはぼくも自信がなかった。
しかしである。一晩考えたら、明け方にヒラめいてしまった。「もうひとつの近代が原っぱに眠っている」。これでどうだあ!って勢い込んで電話したら、もう間に合いません、だって。輪転機はまわる。世界も回る。ぼくの回りも輪になってグルグル回ってる。まるで天才バカボンのパパだね、こりゃ。
2002.9.5
すっかり電話が恐くなっちゃたけど、ウレシい電話もある。八王子の診療所がついに今月2日からオープンした。順調に患者さんを迎えているらしい。こんな知らせにはジーンとくる。ゆっくりと来院する方が増えていくといいんだけど。八王子近辺にお住まいの方、あるいは、ひとに言えない健康上の問題をかかえておられる方、ぜひメールをください。ぼくが紹介します。内科を中心にあらゆる健康相談にのってもらえます。女性医師ですゆえ、けっして恐くありません。木の香りに包まれた診療所で診察を受けるなんて、こんなに贅沢なことはありませんぞ。
と、ここまで書いたら奇跡がおきた。なんと植林女史が輪転機を止めたらしい。「もうひとつの近代が原っぱにあった」だったら、なんとかスペースに押し込め可能だって。ウェーン、ありがとうと、つい涙ぐんでしまった50男の、桜散る青春なのであった。
それにしてもこの号はすごいぞ。建築への志をまだなくしていないみなさん、住宅建築の10月号だけは、なんとしても買おう!編集長の植久さんの勇敢かつ苦渋の決断と、担当の植林さんの血と汗と涙と、それからぼくのほんの少しの苦労がミックスして、まったりとした味わいのある逸品に仕上がる(はず)ですゆえ。
2002.9.6
31日の土曜日、茅ヶ崎の住宅の地鎮祭。よく晴れて、暑かった。翌日曜日、イームズの原稿書く。タイトルは「サンタモニカの早咲きロックンロール」。ふざけんな、ってボツにならなきゃいいんだが、ちょっと心配。
日付けをさかのぼって金曜日30日は石山修武さんの最終インタビューで世田谷村にいった。そのさらに前日、両国の編集部でペ−ジ割を決めた。もちろんぼくが決めたわけじゃなくて、作業を見せてもらっただけなんだが。でもまあ、これで石山さんの特集にかんしては、ぼくの作業はみんな終わり。担当の植林さんとのコンビであちこち取材してまわったのが楽しかった。なんだか小学生の作文みたいになっちゃったけど、今回はこれでカンベンして。
2002.9.2
ああ、ついに連載も終わってしまった。またもや文字の奴隷と化して、よしなし事など書きはべりぬられろ。あれなんだか口調が変だ。樋口一葉なんか読んじゃったせいだぞきっと。いま、ぼくの頭は日本の明治に飛び、アメリカのミッドセンチュリーに飛び、世紀末フランスはナンシーの美しかるべき5月に飛び、時間も空間もグチャグチャだぜ。それぞれ書いた原稿の順番に妄想が広がってるだけなんだけど、それにしてもいったい、この脈絡のなさはナニ?
そんなことやってて仕事は大丈夫かってお思いでしょう。ガッテン承知。ちゃんとやってます。茅ヶ崎の住宅は来月着工。二宮の人形の家は来月見積もり。事務所の近くの小日向の家は来月完成。宇都宮にレストランの計画。ありゃまあ、事務所の事情がみんなバレちゃうなあ。だけど隠すべきロマンスもないもんね。かのアニータ女史の、強欲かつ理不尽かつタフなパワーを見習いたい。
さて、いま考えてるのはイームズのこと。椅子で有名なあのイームズだ。彼は生涯「建築」にこだわった人だけど、そのキャリアの絶頂期に、なぜか建築を放り出しちゃう。「建築ってのはイライラさせられるビジネスなんです」って言って。ウーム。天才イームズにしてサジを投げたこの「建築というビジネス」っていうのはなんだろうか?
車、映画、ロックンロール、そして兵器。先のミッドセンチュリーにアメリカが高度に産業化したものたちだ。しかし、アメリカの産業の力をもってしても、ついにきちんとしたかたちで産業化できなかったものがある。建築がそれだ。スカイスクレーパーはできたけれど住宅はできなかった。
それはなぜなんだろう、といった内容のことを、これから原稿に書こうとしている。10月発売予定の文庫本で「とことん、イームズ」(仮題)に寄稿するコラム。もしも本屋でみかけたらどうぞよろしく。
と、ここまで書いたら「暮しの手帖」が送られてきた。24日発売だからもう本屋に並んでるはず。こっちもどうぞお忘れなく。「設計事務所の夜はふけて」というぼくのコラムがおすすめものですゆえ。
2002.8.25
突然ですが、8月13日からこのホームページのアドレスが変わりました。以前のアドレスにアクセスすると自動転送されますが、それも年内まで。新しいアドレスは下記ですので、どうぞよろしく。
アドレス http://www003.upp.so-net.ne.jp/umihiko/
それではまた、今回も連載の続きをどうぞ。これが最終回です。
2002.8.19
夏休み特別企画 「無名の学校の無名の生徒たち」
連載第四回
5 漂流教室
「漂流」というのは比喩ではない。一九七三年から七八年までの二つのオイル・ショックにはさまれた六年間、この学校は本当に漂流していたのだ。借りていた分教場が取り壊されることになって追い立てをくい、私たちは日本列島を北上した。
数河峠の村を降り出しに、一九七四年には秋田県の藤里という村にいたし、七五年と七六年には山形県の作造原という寒村にいた。
移動には貰い受けたオンボロ・ワゴンを使い続けた。製図板やら蛍光灯を詰めこみすぎて車体が傾いた。坂が登れなくて、途中で降りて押したりもした。二十人いた学生たちがそのころには半分になっていた。
みんな年をとって、正直に言えばボロボロに疲れたのだ。
学生は考えた。── 一体これはどうしたことだ。近代批判どころか、これでは野垂れ死にではないか。
倉田の方でも考えた。疲れ果てていたけれど、その意地はまだまだ健在だったからストレートなものだった。──野垂れ死んだっていいじゃないか。おれはまだ自分の画きたい絵を見つけちゃいないんだぜ。ここで止めてなるものか。
もちろんそれは倉田の痩せ我慢というものだ。それでも、痩せ我慢だって頑張りとおしてしまえば歴史をつくる。線路の傍に咲いた赤いスイートピーみたいなものだけれど、その咲っぷり、その歴史ぶりはジメジメしていない。建築のデザインを、生きることの全体と関係づけるのだという思いだけは、この世のどん詰まりみたいな分教場にいてもやっぱり手放さなかったからだ。
とは言うものの、それは難題だ。理屈から物事が始まったためしがないように、「生きることの全体とつながった、分断されていない建築を」と言ってみたって、それが直接に建築の形を生むことはないのだから。
ボーボーと生える草むらの中の分教場で私たちはまったく途方に暮れた。
その様子を当時の学生のひとり山田純二がこう書いている。舞台は七六年の作造原。その年の夏はいく日も雨が降りつづき、ひどい寒さで、ラジオは冷害のニュースを流していた、山田のノートはそう始まっている。
……あまりの寒さに、今からだと信じられないのだが、講堂で昼 間からストーブを焚いた。アメリカのインディアンよろしく、肩から 毛布をはおって校舎の中を歩きまわった。ただでさえむさ苦しい男ど もがさらに異様な格好をしているものだから、お互いの姿を見て笑い あった。そんな時だれかが、真冬に雪が降り積もるころこの作造原で 合宿しようと言いだした。「吹雪がピューピューうなる校舎で、訪れ てくる人なんか一人もいず、それでもコリコリと製図板に向かうん だ!」
それは作造原の現在をそのまんま拡大した姿だった。絵に画いたよ うな悲惨さがさらに拡大されて、目に見えるようだった。
実を言うと、分教場の講堂でガンガンと燃え盛っていたというその真夏のストーブを、私は見ていない。その年には学校を逃げだしていたからだ。しびれるような解放感と後ろめたさで、その夏いっぱいは焼けトタンの上の猫みたいに落ち着かなかった。分教場でつらい眠りを眠っている夢を何度もみた。
その年の空白を埋めるために、私は必死で山田の残したノートを読んだ。七六年を最後に学校は休校となり、七八年になってようやく私たちは最後の開校地、数河峠に帰りつく。だから私が逃げだした七六年というのは何かが変わった年のはずだった。
山田はその年にやったことを箇条書きにしている。
一 自力建設をめざして自分たちの学校の校舎を設計する
二 「デカン高原を一本の柱が支える」という計画案
三 アントニオ・ガウディのコロニアグェル教会地下聖堂の巨大な模 型づくり
四 「人間主義と構造主義」と題された講議
五 テーブルと椅子の実物試作
六 鋳物をつくるための基礎訓練
いつもの年と同じような項目が並ぶ。とりたてて変わったようには思えなかった。ただ、最後の「鋳物をつくるための基礎訓練」というのは初めて聞いた。
発泡スチロールで型をつくってそれに砂を埋め、熔かした鋳鉄を流し込んで鋳造する。そのための型をつくる作業に、地下聖堂の模型づくりが重なったから「深夜の講堂で発泡スチロールの海に溺れて、どえらい目にあった」と山田は書いている。
その言葉のどんな小さな切れ端からでも、深夜の講堂にもぐりこんでいけそうな気がする。ずいぶんはっきりと私は思い出した。前の年、作造原に流れ着いてから、私たちはしだいに図面をひかなくなっていた。なんでもいい、手でつくる仕事がしたい、追いつめられた日雇い人夫みたいに、ウロウロと私たちは分教場中を歩きまわった。図面をひくことから始まった建築の学校が、ひきかけの図面の真中で途方に暮れたまま立往生してしまったのだ。
ヨロヨロと図面から手仕事へと移行していくそのころの学校のことを、講師の鈴木博之がこんなふうに話してくれた。
──この学校には、むしろ絵(図面)の方にこそリアリティーがあるっていう出発点があったと思うんですよ。現実に建つものはいかなるものであれ現実にしかすぎないんだという気分が、六○年代から七○年代のはじめごろにはあって、それがこの学校が始まってから二、三年間は支配的だった。しかしやがて絵のリアリティーを超えなきゃいけない、あるいは絵の限界が見えてきたというか……あのころの大学紛争なんかもそうでしたが、現実は全て汚いっていう、つまり、現実のなかでたった一つしか行なえないことの限界を見た時期からこの学校は始まったわけですから、あくまでも建たない建築を画かなきゃいけないという出発点があったと思うんです。それはそれで一番リアリティーがあったんじゃないか。ですから、絵の段階があって次に具体物の段階に進むというものじゃなくて、絵、つまりイメージにリアリティーのある時代があって、その次にようやく今度は具体的なものの中にリアリティーが見えてきた……。
この発言は前に引用した木田元の発言と同じ場所でのもので、結局どこにも発表されなかった。鈴木の一所懸命な口調だけが、頭にこびりついて残っている。講師の方だって必死だったのだ。なぜあんな学校が在り得たのか。どうして自分はあそこにいたのか。
どんどん考えていくと、時代の底のなんだか得体の知れないものにだって触れてしまう。
だが、先を急ごう。途方にばかり暮れていてもしかたがない。数河峠はもう、すぐ目の前だ。六年ぶりに私たちの乗ったオンボロ・ワゴンは漂流教室の振り出し点に向かって走っている。「鳥になれ!鳥になれ!」五輪真弓の歌がワゴンいっぱいに鳴り響いている。
6 自力建設
一九七八年というのはどんな時代だったろうか。
歌では中島みゆきが頑張っていた。五輪真弓も良かった。その歌声は、山の中に孤立した自分と時代とをつなぐ、か細い電線みたいだった。
ラジオがVANシャケットの倒産のニュースを流し、パリ発の大韓航空機が北極圏でソ連の領空を侵犯して強制着陸させられた、とも伝え、次には「まわるまわるよ 時代は回る」と歌う中島みゆきのすこしかすれた声にかわり、それらの全部を私たちは数河峠の大きな開拓農家で聞いていた。
漂流教室の旅の果てに、ようやく私たちは数河峠のこの村に帰り着いたのだ。
分教場はとうに取り壊されていたからもはや跡形もない。そこから五○メートルぐらい登った丘の上の農家に、私たちは陣取った。その農家と、あたりに広がる一二○○坪ほどの土地を、その年七八年の春に倉田が買いとっていた。
不況の波は倉田の設計事務所をも見逃さずに襲っていたから、仕事の方ではピンチがつづいていたはずだ。それでも、ひとたび数河峠に踏み入れば倉田のパワーは全開状態になって、恐いほどランランと目が光った。
八月の暑い盛り、買い取った農家の二階を製図室に改造するために、朝から私たちは働いていた。逆光の窓の向こうに夏草のしげみがどこまでもつづいてギラギラ光った。まぶしくて頭がクラッとするような日だった。
「これも取っ払ちゃおうか。」
最後に残った壁を指して秋沢が言う。
「そうやね。残しといてもええことないやろうし。」
有本があいづちを打って、私たちはその土壁を壊しにかかった。
三人ががりでスコップを土壁に突きたてる。何度も繰り返していると、壁がしなり、亀裂が広がって、やがて床から天井までの大量の土が一度に崩れ落ちた。もうもうたる砂塵が舞い上がり、土煙であたりが真白になった。
頭から爪先まで砂塵を積もらせたまま三人ともボー然と立っていると、下から「ムチャするなよう!」と怒鳴り声がした。倉田の声だった。下では土間を広げるために床板を剥がしているはずだ。ひょっとしたら、そこで働いているみんなの頭にも土が落ちたろうか?おそるおそる私たちは階段を降りた。
たぶん、メリケン粉をまぶしたみたいな情けない格好だったに違いない。私たちの哀れな姿をみてみんな笑いだした。倉田も笑いながら「まだまだ序の口だからな。」と言った。
たしかにまだ序の口だった。この農家の改造が終わったら、次には仮設ではない、本当の校舎の建築にとりかかる。そのために倉田はこの土地を買ったのだ。
体を洗うために私は外に出た。農家のすぐ横に未来の工事場が広がっている。そこは背丈ほどもある雑草が生い茂った荒地だ。
「ここに土砂を盛れば、立派な土地になる。」倉田はそう言っていた。
「ここに、自分の手を使って自力で建築をつくるんだ。」倉田のそんな言葉も思い出した。
本気なんだろうか?自分の手でつくるなんて……。ボンヤリと考えつづけていると、またもやここから逃げ出してしまいたい気分になってくる。余計な考えを追い払うように体をゆすった。そして冷たい水をいっぱいに張ったバケツに頭を首まで突っこんだ。息が詰まるほど長い間、じっとそうしていた。
記憶の虫メガネを振りかざす。学校の細部をどんどん拡大する。すると見えているのは倉田の顔だ。学生はウロウロとそこら中を駆けまわっているけれど、まだはっきりとした顔を持っていない。
だから、倉田の顔をもっと拡大してみよう。なぜ倉田は自力建設に踏みこんでいったのか。
「そうしなきゃたまらんもんなぁ、いま街に建っているのは、アレは建築なんてもんじゃないぜ、商品だよ。」倉田はよくそう言った。「建築は商品なのだ」という単純で、そして強大な事実が倉田にはイヤだった。それが全部の出発点になっている。
倉田は商品化された建築を嫌った。建築にはそれ以上のものを見ようとした。「建築は最大級の商品なのだ」という圧倒的な強者の正論を、「冗談じゃない!」というもう一つの正論で蹴ったのだ。
この蹴り方がうまかったかどうかはわからない。ほかにもいろんな蹴り方があったろうとも思う。建築の商品性を逆手にとって、モノをうるところから始める運動体づくりの道だってあったかも知れない。しかし、倉田が始めたのは「学校」だった。全部、一から考え直してみようとしたのだ。
倉田のように考えるのは少数派だ。建築の商品性をだれもあまりつきつめない。それは危ないからだ。建築を設計してお金をもらうという自分の職業を危うくしてしまう。
倉田はまっすぐに進んでいった。それで、今では自分の設計事務所を休止している。
しかし、倉田が嫌った「商品化された建築」というのは、具体的に何を指したのだろう?正直に言うと、それがよくわからない。現存する建築全部を指してしまうようにも思えるからだ。商品でない建築が在り得るだろうか?いや、商品化として汚されていない建築というのはあるのだろうか?
倉田は汚れなき建築というイメージを持っている。倉田を囲む学生たちは持っていない。学生たちにとっては、建築が汚れているのは当たり前なのだ。生意気にも、もっと汚してしまうところから建築を変える方法だってありそうだ、とも考えはじめる。
だが、それらのせめぎあいが自力建設の現場をスパークさせていくのは、まだまだ先の話しだ。
私たちはまだ一九七八年の数河峠にいる。目の前には、荒地いっぱいの雑草が音をたてて揺れていて、それが未来の工事場だ。自力建設の入口に、ようやく私たちは立っている。
最後まで名前を書かなかったけれどこの学校は正式には高山建築学校という。ここに書かれた七○年代ばかりか、次の八○年代をもしぶとく生き抜いて、今では数河峠の丘の上に不思議な校舎を建造中だ。
それはどんな建物にも似ていない。建物であるかどうかも分からない。
かろうじて、石を積み上げたものらしいということだけは分かる。近づいてみれば、その積み上げられた石はボロボロに風化し始めてもいる。それは、つくりながら風化していく奇妙な建造物だ。だれもこの建造物には名前をつけようとしない。
こんにちわ。暑いッスね。乱調な天気にあわせて、このホームページもなにやら混乱してる。今回もまた連載は続くんだけど、その前に、ちょっとなにか書いとかなくちゃぼくのこの地獄の日々は伝わらない。
8日は気仙沼に行ってた。造船から建築へ進出してきた鉄工所があって、そこの取材。高橋工業といって、この世界じゃ有名なとこらしい。従業員数15名の小さな町工場。それから9日は高崎へ。ここには左官の親方の森田さんと、大工の市根井さんがいてその取材。ボーボー汗をかいて歩き回って話を聞いて、なんだかすっかり雑誌記者になった気分だ。こりゃお盆も休めそうにないなあ。
2002.8.12
夏休み特別企画 「無名の学校の無名の生徒たち」
連載第三回
4 修行
夕立があがるとやがて夜。あたりにはびっくりするほど濃い霧が流れだす。
分教場の窓からはギラギラと眩しいほどの光が漏れている。
建築の学校を開くには深夜のスーパーマーケットほどの光が必要だ。光に吸いよせられた蛾みたいに私たちは製図板に貼り付いている。その雰囲気はもしかしたら、場末のボクシング・ジムに似ていたかも知れない。
裸電球の下で無名の青年がシャドー・ボクシングのステップを踏んでいる。汗が飛び散り、松ヤニを塗ったシューズで床はいつまでも鳴りつづけ、たぶんその横には片眼片足の会長がタオルをもって立っていたりもするだろう。そんな光景がピッタリとあてはまってしまいそうな雰囲気が、そのころの分教場の教室にはあった。つまり、私たちがそこでやっていたのは研究でもなかったし勉強でもなかった。修行としか言いようのない何かだった。
人はどんなふうにして自分の職業への修行を積むのだろう。
他の場合は知らないけれど、建築でいうならばそれは製図工として設計事務所を渡り歩くことから始まった。もちろん、そうしない人もいたが、仕事を覚え修行を積むには、設計事務所を渡り歩くのが近道だった。
そのむかし、小さな黒い前掛けと革の製図道具入れをもって、アメリカ中西部の街シカゴを流れていく渡りの製図工たちがいたらしい。一八八○年代の終りごろの話しだ。そのことを私はシカゴの建築家フランク・ロイド・ライトの自伝で初めて知った。
ライトというのは二○世紀のミケランジェロみたいな建築家だったけれど、出発点は無名の製図工だった。一八八七年の晩春にライトはシカゴのシルスビーという建築家の事務所を訪ねる。
受付にいたのは若い男で、ライトは彼に自分の図面を見てくれるように頼む。
彼は注意深く私の図面を見た。「君はこれを自分の好きなように書いたの?」
「そう。」
「いいタッチだ。ちょっと待っていたまえ。」彼はそれらを持って、「私室」と記された扉から入って 行った。ほどなく彼は、長い金鎖を鼻に下げた金端めがねをかけ、背の高い憂鬱そうな顔をした貴族的な 男と一緒にあらわれた。彼は戸口に立って、無頓着に眉をひそめて私を見た。それがシルスビーであっ た。「よろしい。採用しよう。製図工の給料だ。──八ドル。」と彼は言った。 (『わが生涯』樋口清訳)
数ヶ月後にライトが訪ねていくのは、今度はアドラー・アンド・サリヴァンの事務所。当時のシカゴの第一流で、オーディトリアムの内部の仕上げ図面を書ける人を探しているというのを聞きつける。
ライトの持参した図面を見てサリヴァンはこう言う。「君は正しい筆致をもっている。君はやれるだろう。」次に聞くのはこうだ。「君は今いくら貰っていますか?」
「十分ではありません。」私は答えた。
「そう、どれくらいで十分ですか?」
「二十五ドルです。」
彼はほほえんだ。というのは、私は四十ドルを要求することができ、それだけ貰えたかも知れないから だ。
「よろしい。しかしオーディトリアムの図面が終わるまで動けないないことは承知していてくれたま え。しかし、その間ずっとその給料で働いてもらうつもりはない。君が来るようになったら、相談しま しょう。月曜日の朝、来れますか?」
やがてライトはサリヴァンの、ハミ出し気味ではあるけれど高性能な鉛筆となり、シカゴで最も高給の製図工と噂されるようになる。
給料が上がっていくのとライトの建築修行の深まりは一致していた。そして製図工から叩き上げるかたちの建築修業は、日本でも一九七○年ごろまではありふれた姿だった。
正確な分かれ目などもちろん目に見えるはずもないのだが、一九六○年代の末から七○年代にかけて、この修行のかたちはこわれていく。叩き上げようにも、めざすべき建築の姿がなんだかボンヤリと霞んでしまったからだ。
設計事務所で修行を積むのはイヤだ、と考える人間が増えた。そこで教えこまれる建築観がなんだかインチキ臭く見えだしたのだ。文学の世界ばかりでなくて、建築でも、若者は怒っていた。
そのころに現れた若い建築家たちの一群を、小能林宏城という批評家は「脱藩する建築家たち」と呼んだ。建築界を江戸時代の幕藩体制にたとえたのだ。
一九七三年には最初の、そして七八年には二度目のオイル・ショックがやってくる。不況の建築界は脱藩現象を加速させた。その間の、建築界からハミ出した年若い建築家たちの仕事振りはすごかった。みんな製図工の経験を持っておらず、そのことを逆にバネにしていた。だから彼らのつくりだす建物はみんな素人細工みたいにゴツゴツと粗くて、工作の時間に教室の隅っこでつくったブリキのオモチャみたいだった。
それでも、そのブリキのオモチャはなんだかひどく輝かしかった。夕陽を浴びるとギラッと光って、どこまで飛んでいくんだかわからない未知の飛行体のようにも見えた。
彼らは、建築の修行のかたちを変えようとしていた。設計事務所の中には建築はないのだと考えて、修行の場所をところに求めた。バナナの皮をかじったり、百円玉一枚で米を買いに行ったりしながら、死んでも設計事務所なんかに行かないんだと考えている者たちがたくさんいた。私たちの学校が漂流していたのはそんな時代だ。
夏休み特別企画 「無名の学校の無名の生徒たち」
連載第二回
2 小さな文章
1968年から72年まで、というのが私の大学時代だった。ということは日本のささやかな文化大革命、つまり大学紛争の始まりから終わりまで、正確に重なった期間をそこで過ごしたことになる。
そのころの出来事については実に多くのことが語られ、記録されている。私が今、いちばん素直な気持で読めるのは、たとえばこんな言葉だ。
日本では大学があまりにも大衆化してしまった。その結果、あまりにも多くの知識人が大量生産され、 なかには勉強はできるがまるでかしこくないのも、ときにはその逆もいることが判明して学歴の看板に多 少の亀裂が走った。1960年代末に日本の大学を襲った「小さな文革」に多少の意味があったとするなら、それは、われわれエリートではない、利口ものでもない、われわれは大衆であり、率直にいえば歴史 の高波のなかで浮き沈むバカものの集団にすぎない、と学生たちが苦くて正確な自己認識を行なったこと (行なわざる得なかったこと)だったろう。(『東京からきたナグネ』関川夏央)
歴史の高波のなかで浮き沈んだバカ者の一人として、確かに私もそう思う。ただ、私の場合にはそこから後の方が重い。エリートどころか、大衆の一人というのもおこがましいほどの屈曲した道を歩くハメにおちいったからだ。
幸か不幸か、私は1972年の日本に居合わせてしまった。
たぶんこの時期でなければ、倉田康男という一人の完成した近代の建築家が、自前で建築の学校を開こうなどとは言いださなかったろうと思う。倉田は、自分の建築という職業の底にある「近代」というものを疑ってしまったのだ。疑わせるだけの力が、そのころの時代にあって、しかもそれがピークに達していた。
私たち学生の方ではどうしていたかというと、これはあんまり誉められたものじゃなかった。聞きかじりで覚えた言葉を投げつけあった。「近代を批判する!」「職業、ナンセンス!」「ウルトラマンのガラスの眼に学べ!」お粗末というほかない。
そのころはしかし、近代を批判するという旗じるしは圧倒的にキレイで純にみえた。お粗末な学生の胸にも、ジンと滲みたのだ。だから、山の中の分教場を使って建築の学校を開き、近代の知の枠組を問い直すのだというキャッチフレーズには文句なくしびれた。
本当かナァ、などと疑っている場合じゃなかった。分教場と近代とがどうしてつながるんだい、なんていうのも訳知り顔の議論というものだ。大学は卒業したものの、就職できずにいた私にとってはまさに地獄に仏、渡りに船、一も二なく倉田の後についていくことにした。
そんな事情を抱えていたのは私ばかりではなかったらしい。仲間はすぐに二十人ばかりにふくれあがった。あちこちから貰い集めた自炊道具を、これもタダ同然で買い受けたオンボロ・ワゴンの荷台に詰めこんで、1972年の二十人の落ちこぼれ学生たちは一路数河峠の分教場をめざして進んで行った。
3 分教場
一ヶ月間を、二十人の学生と一人の教師が分教場で暮す。その生活がどんなものか、想像して欲しい。
季節は夏だ。
数河という村は海抜にして800メートルぐらいのところにあるから、夏だって肌寒い。本当の盛夏といえるのは八月のはじめの二週間ぐらいだろう。
七月の終わりには、きまって雨が降り続く。
長雨に閉ざされたカビ臭い教室で、ひたすら近代を批判すべく猛勉強に追われていたかというと、もちろんそんなことはあり得ず、二一人分の生活を支えるために、私たちは走り廻った。
貸ブトンを借りる。便所紙を補給する。ゴミを燃す。買い出しにも行かなくてはいけない。近代だって裸足で逃げ出そうというものだ。
一番大事なのは、二一人分の食事をつくることで、自炊という点では、私達の装備は完璧だった。三升炊きの巨大な釜、大鍋が二つ、フライパンに中華鍋、食器はほとんどが大学の生協食堂のもので、それを集めた仲間は、野生の食器をつかまえてきたのだと言い張った。
八月になると分教場のトタン屋根が焼け、教室の中にいても汗が流れだす。油断していると、汗の雫が画きかけの図面に落ちて、苦労をだいなしにする。そのころ私たちは、自分の手でつくった製図台の上で、膨大な量の図面をひいた。夜もほとんど寝た覚えがない。
とにかく、近代的に街で見慣れたものは一つもありませんでしたね。トーテムポールみたいな絵もあっ たしね。たしか、山の中の一画にコミューンのような建築郡をつくろうという課題で、望月さんという女 の学生が風呂なんかの計画をしていて、そこにはちゃんと狼なんかもはいれるようにしてあったなぁ。
ずいぶん後になってから、哲学者の木田元がそう話してくれた。現象学についての講議をするために、木田はわざわざこの山奥の学校までやってきてくれたのだった。
廃校を舞台にした建築の学校と哲学者との組み合わせは、似合っているようにもミスキャストのようにも思える。この学校には、木田のほかにもたくさんの講師たちが集まった。学生よりも数が多かったりした。講師が自分の同僚たちに声をかけて、さらに講師を呼び集めたからだ。
それはキラ星の群れのようだ。
生松敬三、小野二郎、木田元、丸山圭三郎、それに建築からは石山修武と鈴木博之。何人かは故人になってしまわれたけれど、彼等との付き合いは延々と今日まで続いている。
一度も謝礼を払ったことのないこのキラ星たちが、なぜ私たちの学校に来つづけるのか。それは倉田康男がなぜこの学校を続けているのかというのと同じくらいに不思議なことだ。
八月の分教場にもどろう。夕立があがって、濡れた土の香りが教室の中にまで漂ってくる。二○畳ぐらいのところにベニヤ板でつくった奇体な製図台が並んでいる。足元には毛布や酒ビンが乱暴に投げだしてある。そこで図面をひいている連中はもっとむさくるしい、髪をのばし、腹をすかし、そのあい間には建築のことも少しばかり考えようという、まことに奇怪な集団だ。
就職もせずに、社会の仕組みから一直線に落ちこぼれた学生たちを、自分の職業を疑ってしまった建築家が率いている。風体はあやし賤しいし、口振りもなんだか真正直すぎてあつかましい。木田元をつかまえてメルロ・ポンティを語ったりする手合いだって居る。さすがのキラ星たちも持て余してしまったに違いない。
それでも講師たちは学校に付き合い続けた。むきになって学校に来つづけた。なんだか意地をはっているようにさえ思えたほどだ。1987年になってからの内輪の対談で、木田元がこう発言している。
──あそこは、講師を呼ぶにも学歴だけじゃダメで、体質もある。(笑)
それに対する石山修武の即座の対応はこうだ。
──しゃべってもなんにも報いられませんからね。(笑)
ヘタをすればもう、無教養な人間からバカにされて(笑)
括弧の中で笑っているのは、実は当の学生自身なのだが、私は木田の言った「体質」という言葉に胸をつかれた。いったいそれはどんな体質だったろう。
考えることと生きることの差を少しでも縮めたい、もっと全体的な生を生きたい、そういう想いはたぶん、どんな人間にも備わった尾てい骨のようなものに違いない。けれども、どうしてもそうせずには生きられないと強く考え、不完全ではあってもそれを実践してしまう人間がいたとしたら、それには体質だって大いに関係しているだろう。学校を率いた倉田康男は、そういった体質を人に倍して強く持った人物だった。
学校が年を重ねるにつれて、倉田のそんな体質はきわだった。見ているほうがつらくなるほどにきわだった。「近代を批判する」などという口あたりの良い話ではなくなって、生きることへの我執みたいなものだってかいまみえた。
だから、この学校に付き合っている人間たちの間には、学生であれ講師であれ不思議な選別の力が働いている。逃げ出してしまった者だって多い。今でも学校をつづけているのは、落ちこぼれていくだけのパワーを体のどこかに隠し持った者ばかりだ。それは、倉田の体質が発散するエネルギーに耐えて、そこに他人事ではないものを見てしまった者達の集団でもある。
「暮しの手帖」のキッチン特集のお手伝いが、ようやく全部終わった。入稿がほとんど済んだと聞いて、一安心。ぼくもオマケでページがもらえたから「設計事務所の夜は深けて」ってのを書いた。うちの事務所の実態が赤裸々に書いてあるので、どうぞ読んでみてください。八月なかばに出る増刊号ですゆえ。
ところで、なんだかとってもヤバイみたい。このホームページへのアクセス数が減ってきたみたいな気がする。ここで一発ウケるものを書かなきゃいかんのだけど、じつは、なにがウケるやら見当がつかない。しょうがない、ここは居直って、自分が面白いと思うものを書くしかないね。
前回紹介した、風の叉三郎みたいな学校のことだけど、むかしある雑誌に長い文章を書いた。夏休み特別企画として、そいつを六回に分けて連載しようと思う。
2002.7.29
夏休み特別企画 「無名の学校の無名の生徒たち」
連載第一回
1 廃校
使われなくなった分教場を探して、日本中を渡り歩いたことがある。
山の中の分教場を借りて自分たちの学校を開こう、そう思い立ったのだ。
行く先々の村で、私たちは、立派な造りの木造校舎にいくらでも出会うことができた。はるかむかし、もう二十年も前のことだ。
たいがいの校舎はガランとして人の気がなく、廊下の床に、うっすらと埃が積もっていた。小学校の統廃合が進んで、たくさんの校舎が廃校にされ始めた時期だった。教室の壁に生徒たちの自画像が貼ったままになっていて、風でパタパタはためいていたのを、今でも覚えている。
岐阜から始めて恵那谷、神岡、能登と、日本の中部地方の村々を訪ね歩いたのだけれど、分教場はなかなか貸してもらえなかった。私たちの怪しげな風体が嫌われたのだ。
五人ばかりの学生を、一人の教師が引き連れている。身なりはよれよれでボーボーと髪を伸ばし、まったく得体の知れない集団に見えたに違いない。途中で立ち寄った食堂では、テレビがあさま山荘事件の続報を伝えていて、群馬県の山中で次々に発見される過激派学生の遺体を映し出していた。
分教場を探し歩く旅はそれでも、飛騨高山に近い数河という峠の村で、とりあえず終わった。その小さな村の小さな分教場がちょうど廃校になって、運よくその校舎を借りることができたからだ。
校舎は教室が二つだけ。それに、小さな講堂がついていた。給食室やら、職員室があったかどうかは、もう忘れた。今ではこの校舎も取り壊されて跡形もなくなったから、思い出しようがない。
砂まみれの床をブリキのバケツに汲んだ水で洗っていると、なんだか耳鳴りがして、息が詰まった。あけ放った教室のガラス戸が風でいっせいにガタガタ鳴った。
どこかとんでもない山奥に、ひっそりと見捨てられたような廃校はないものか。それが私達の分教場探しの旅の始まりだった。
そんなところならきっと自由に使えるにちがいない。人っ子ひとり訪ねてこず、テレビもなければ新聞もない。たぶん谷川かなんかがゴホゴホいって、「おいおまえ、きっとまっさらな気持で建築が考えられるぞ!」倉田康男が夢をみるような調子でそう言った。
倉田はその時四十五歳。すでに名をなした建築家で、東京銀座に立派な設計事務所を構えていた。
週に一度だけ、倉田は法政大学の学生に建築の設計を教えていた。その縁で、卒業しても行くあてのない学生たちを集めると、倉田はこんなふうに言った。
「こんなゴミみたいな街のなかじゃ、建築なんて考えられないぜ。まっさらなところへ往って建築をやり直そうぜ。どこか山の中で、自前の学校でも開こうじゃないか。」
私たち学生は、訳も分からずに、ただドキドキしてうなずいた。一九七二年のことだ。
|